弁護士の需要を考える

今度の日弁連臨時総会では、司法試験合格者の人数を増やすべきか減らすべきかの議論がされることになってますが、増員派の意見によると弁護士は足りない、需要はある、ということなので、私が見ている世界と全く違う世界があるようだとの率直な疑問を持っております。

どうも、弁護士の需要というのは本当にあるのか、あるとしたらどこに発生するのかということが気になる昨今です。

 

訴訟事件の減る仕組み

そうしたところ、私はある先生から次のような質問をされました。

ところであんた訴訟の件数何で減ってるか分かる?

はあ、それは過払いが減ったのはともかくそれ以外は謎なんですが、と返すと、更に次のようなことを仰ります。

ほら、最近銀行が訴訟起こすの見ないでしょ?銀行がお金貸しても自分で取り立てないで保証会社付けるから。あの保証料どのくらいか分かる?例えば15%で金貸したとして。

5%くらいですかねえ、と適当に答えたのですが、7から8%位は取っているんじゃないかとのことです。それだけ保証料を貰えれば確かに保証会社も利益を上げられます。更に質問は続きます。

保証会社が取り立てられなくなればサービサーにさらに回るでしょ。あれは債権ナンボで買ってるか知ってる?

ああそれなら債権額面の1%とかですかね、と答えるとまあそんなもんだね、ということのようです。ここでサービサーが債権を叩き買っておけば、あとは訴訟まで持って行かなくとも細かく回収して元が取れる、ということで滅多に訴訟なんか起きない仕組みになっている、という話のようです。

以上、細かく言えば不正確なところはあるかもしれませんが、確かに仕組み上は弁護士費用を含めた紛争処理のコストがより掛からない金融システムが整備されてきた、ということになりそうです。

 

交通事故と過払いの例

似たようなことは他にもあります。

例えば、自動車保険が普及した当初は示談代行サービスがなかったので、交通事故が発生すると必然的に弁護士の登場機会があったというような話を先輩方から聞いたことがあります。

しかし、それでは色々と支障があったのでしょうか、弁護士法の規制との絡みで紆余曲折はありつつも、損保会社による示談代行が当たり前になっていった経過があります。

最近の過払い事件も同じような面はあります。

ご承知のとおりグレーゾーンは撤廃されて出資法の規制は強まりました。長期的にみれば、高金利に苦しむ人は減るので社会的にはハッピーな結果となりましたが、語弊を承知でいえば過払い事件がなくなる弁護士はアンハッピーです。

 

はかなく消える弁護士需要

さて、まとめるには事例の検討が少ないかもしれませんがちょっと考えてみます。

紛争解決のための弁護士費用を含むコストは、自分でいうのも何ですが社会にとってはない方が望ましい費用です。そうすると、社会は常に、紛争が生じてコストがかかることを回避する方向に進んでいきます。

上記の各事例は、いずれも現実そうなっている典型的なものです。

すなわち、弁護士の需要というものは、社会の変化により徐々に生まれていくことはあるのですが、対応策の整備によりはかなく消えていきます。一本調子に需要が増大するということでは必ずしもありませんし、逆に、そうなるのだとすればかなり歪んだ社会になります。

こう考えていくと、国際化が益々進展している昨今は確かに国際業務は熱いかもしれません。しかし、この分野の問題としては、複雑かつ高度な業務に耐えうる人材がどれほど得られるのかということがありそうです。

例えば、日本法のみならず諸外国の法令に通じなおかつ外国語での意思疎通にも不自由しないという人材が必要になってきますが(そういう人材は確かに居るので凄いとは思います)、法曹人口を増やしたところで下の方に裾野が広がっていくのであれば、適合する人材を十分に得ることはできないでしょう。

 

地方の弁護士需要の実感

一方で、地方に住んでいると、どうしても経済活動の収縮と人口減少の影響は肌で感じざるを得ません。

例えば、このあたりの会社を破産させて清算するような仕事をすると、この地域からまた一つ会社が無くなり、そして人も去ってしまうことになるので、大変悲しい思いにもなります。

あるいは、遺産分割がまとまって相続人にお金を送ろうとした時に軒並み管外の金融機関宛になっていたりすると、資本が人と共に流出していく姿を目の当たりにすることになります。

そういったことが日々起こっているのが、地方の実情です。

弁護士を必要とする問題があっても権利の動く機会が少なかったり、あるいはその量が小さいということになれば、法曹人口が増えたところで社会的な意味は乏しくなってしまいます。

この20年余りのトレンドとしては法曹人口の増加、とりわけ弁護士人口の増加が志向されてきたところですが、このような方向性は、結局、紛争処理コストを巡る社会のあり方というものを見誤って策定されてしまったものではないか、との感を持たざるを得ないところです。

 

なお何をなすべきか

さて、そんな状況の中で、私に何ができるでしょう。

強いていうなら、個別の紛争解決活動か公益活動かを問わず、この地域の人と社会のためにあらゆる知恵を出し尽くすことが最後に残る役割であるとの自覚はありますが、それでいつまで仕事が続けられるでしょうか。

なお先の見通しは楽観的なものではない、と感じています。