司法制度改革と「法の支配」

司法制度改革が進み出して以来、「社会の隅々まで法の支配を」というスローガンを良く聞くようになりました。

この言い回しは、現在に至るまで、各種の声明や宣言、あるいは個々の弁護士の意見の主張においてまで、様々なところで耳にします1

しかし、最近の私は、どうしたわけかこのスローガンを聞くと、どうもおかしな感じを持つようになってきてしまったところがあります。

なぜ、そのような思いを持つに至ったのか、そろそろ会務が繁雑になってきてブログを更新している暇もなくなっていくかもしれませんので、私のこれまでの来歴も踏まえてまとめて振り返ってみることにします。

 

「法の支配」へのアフェクション

だいぶ昔に遡り、私が京都大学の法学部の界隈に生息していたころには、佐藤幸治教授(当時)の「法学入門?」及び土井真一助教授(当時)の「外国書講読」を履修していました。

それはまだ1回生のころのことでしたから、6年7か月という妙な長さにわたる法学部生活2の中でも極めて例外的に、真面目に出席していたものです。

佐藤先生はアタッシュケースを持参して銀行員みたいな雰囲気で講義に現れ切々と語っていたことだとか、土井先生はシュッとしていて落ち着いた声で切れ味鋭い講義をしていたことだとか、いずれも印象に残っています。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。」という言葉を紹介していた土井先生は特に格好良かったなあ、などと思い出されます。

その影響なのか、あるいは周りの空気の影響なのかは、今となっては判然としないのですが3、「法の支配」という言葉の意味についても、全く疑いなく佐藤幸治説に沿った理解をしていたところではありました。

それは、「正しい内容の法」という濃厚な意味を「法の支配」の中に見出す立場ということになるでしょうか。

 

司法制度改革審議会の意見書

そこで、司法制度改革審議会が平成13年にまとめた意見書で「法の精神、法の支配がこの国の血肉と化し、『この国のかたち』となるために、一体何をなさなければならないのか」なんていっておるなら、そりゃあ、我が国のあらゆる場所において「正しい内容の法」による統治が行われる世の中を作るんだって目標を掲げているってことだよな、こりゃあスゴいことだぜ、と思い込んでもしょうがないというものです。

少なくとも、そのころの日弁連の執行部がそう理解していたということは、当時の会長声明に現れた「社会の隅々まで法の支配を」という一節から明白です。

もっとも、私も弁護士になる前にそんな意見書も会長声明も読んでませんが、ただ、平成10年代前半というのは、そういった空気を有形無形に感じる時代であったことは間違いありませんでした。

俺なんか東京や札幌みたいな都会に居なくても他の人が頑張るだろうし4、ならば、自ら日本の端っこの弁護士会にこの身を投じてみるのも善きことなんであろう、とか思ったりもしたものです(そうはいっても、帯広は過疎地でもなければそれほど端っこでもない。)。

しかし、司法制度改革の行く末は、今更言うまでもありませんが惨憺たるものとなってしまいました。論者によって見方は異なるとは思いますが、全く問題は生じていないのだ、という主張ができる人はそうはいないはずです。

 

「法の支配」とは何か

どうも、「法の支配」という言葉の論争性5には、何か呪いでもあるんじゃないかという気がしてきました。

「法の支配」の意味など疑いもせず長らく暮らしてきたのですが(これこそ受験勉強に専念して視野が狭くなってしまった弊害ですね!)、昨今は、憲法秩序が怪しくなるような諸々の問題が出てきて、さすがに基本となる考え方を真面目に勉強し直さなければならない状況になってしまいました。そんなことをしていても稼ぎには全くといっていいほどつながらないので誠に困ったものです6

そうしたところ、こんな意見に出くわしました。

ことばの使い方はもちろん人によってさまざまでありうるが、法の支配を「正しい内容の法」の支配と同視し、望ましい法秩序のあり方をすべて含むかのように濃密に定義してしまえば、この概念を独立して検討の対象とする意義は失われる7

この論文のタイトルもずばり「法の支配が意味しないこと」なのですが、今までの理解とまったく違うじゃないか、との感を持った次第です。

更に過激な批判も存在しているようです。

法の支配は、実定法の物神化によって体制的権力を批判免疫化する機能をもつか、さもなくば法的議論をイデオロギー闘争の代用品に転化する機能をもつ。いずれの場合も、法の支配は、政治闘争のアクターが「政治的に中立な法的論議」の仮構に自己の党派性を隠蔽して正統性を欺瞞的に調達することを可能とする装置である8

要するに、これは、法の支配を装って批判を寄せ付けないとか議論を封殺することだってあるじゃねえか、というように読めます9

「法の支配」概念は、元々はコモン・ローの国(英国・米国)で発展した考え方ですが、コモン・ローを承継した法体系を有する国の中には、政治的反対者を裁判を使って弾圧するような国も存在しています(米国ですら怪しいといえば怪しい)。

法に従え、そして裁判所を尊重しろ、それが「法の支配」だ、といってしまうのであれば、法が正しくないとき、あるいは裁判所が正しくないとき、人々はどうすれば良いのでしょう。

 

スローガンとしての「法の支配」

さて、「社会の隅々まで法の支配を」といったスローガンが掲げられるような場合に、ここでの「法の支配」とはいかなる意味を有するものなんでしょうか。

仮に、それが長谷部教授の理解のように「法が備えるべき特質」という程度の希薄な意味10であるとすれば、何を言っているのか全く分かりません。ですから、かような意味で使われている訳ではないようです。

それに、このスローガンが「正しい内容の法」を前提としないのであれば、形式的法治主義と何が違うのかという疑問があります。それなら最初から「(形式的)法治主義を貫徹する!」と言っとけば足りるのですから、あえて「法の支配」という概念を持ち出す必要はありません。

そこで、ここでの「法の支配」とは、「正しい内容の法」を前提とした意味、と理解するほかありません。まあ、佐藤教授は司法制度改革審議会の意見書の起草に関与しているはずですから、色々考えたところでそういう解釈に辿り着くのは至極当然なことです。

ところが、そう考えると、「正しい内容の法を社会の隅々まで行き渡らせる」という構想は余りに気宇壮大なために、そのような社会の構築への道筋を慎重かつ綿密に策定しなければ、その実現は到底無理なんじゃないか、という疑問に突き当たります。

すなわち、それは「ロースクール作って合格者3000人、とりあえずやってみろ!」で、そのような社会を現実に構築することができるのかという疑問です11

 

「法の支配」を実現する条件

もちろん、実現できる道があるならば一生懸命取り組むべきでしょうから、構想を具体化するための条件が何かということを考えてみなければなりません。

まず、何よりも「正しい内容の法」を理解した適切な人材を養成する必要があります。

「正しい内容の法」というくらいですからその理解にまで到達するには厳しい修行が必要でしょう。そのための覚悟と素質がある人材を確保できているでしょうか?法科大学院では着実な養成ができているのでしょうか?司法試験では志願者の能力は十分に試されているのでしょうか?司法修習では修習生に不足なく経験を積ませることができているでしょうか?

次に、「正しい内容の法」を理解した人材を、適切な場所に配置する必要があります。

裁判所に十分な裁判官が配置されているでしょうか?検察庁に十分な検察官が配置されているでしょうか?あるいは弁護士会はどうでしょうか、弁護士が本来いるべき場所にいなかったり、いるべきではない場所にいることはないでしょうか?

更に、人材を配置するだけでは足りず、「正しい内容の法」を実現するための適切な活動を保障しなければなりません。

1円を得るために100円掛けるといった場合にまでコストを国民が負担する覚悟はできているでしょうか?国民のそのような権利意識を醸成するための活動は十分に行われていたでしょうか?裁判官は出世や地位にとらわれず判断ができているでしょうか?検察官は不偏不党に活動できているでしょうか?弁護士はどうでしょう、金回りの良いクライアントの言いなりにならないでしょうか?あるいは属する組織の意向に逆らえないことにはならないでしょうか?そして、いずれの職にも共通しますが信念を貫いた場合に職を辞する自由は確保されているでしょうか?

もう一度、問い直してみなくてもよいのでしょうか。

濃厚な意味における「法の支配」は、安易な構想による実現を許しません。そのためには、様々な条件が必要となることでしょう。

果たして、司法制度改革はその容易ならざる前途を意識して着手していたのかどうか、余りに楽観し過ぎてはいなかったのか、私は疑問に思います。

 

「法の支配」の成れの果て

そして、司法制度改革が進んでも、濃厚な意味での「法の支配」が容易に実現できないことが分かってくると、どうもおかしな話があちこちから聞こえてくるようになってしまいました。

例えば、依然、昨今においてもスローガンとして持ち出されてくる「法の支配」という言葉も、もはや「正しい内容の法」を前提とする意味ではなく、形式的法治主義みたいな意味でやけくそ的に誤用されているようにしか聞こえてこないことがあるのです。

もちろん、そんなものはお前さんの思いこみだの空耳だとかといわれてしまえば仕方がないのですが。

かような次第で、最近、「法の支配」、とりわけ「社会の隅々まで法の支配を」などという言葉が各種の宣言や声明に入っていたり、人の意見に混ざっているのを聞くと、違和感を禁じ得ず、あるいは、それを通り越していささか嫌悪感すら覚えてしまうようになってしまったのでありました。

誠に悲しいことです。

 

最後に

もう、「法の支配」をスローガンとすることはやめにしませんか?

本来であれば、司法制度の改善はもっと地道な目標を掲げて取り組むことを考えなければならなかったのではないか、と思います。

私は、佐藤教授の「憲法」(青林書院)を読んで学び、その博識溢れる理知的な解釈論には感服するところも多々ありましたから、佐藤教授の学問的業績には大いに尊敬の念を抱いています。しかし、司法制度改革の結果いかなる事態が司法の分野にもたらされたかということを思うにつけても、その卓越した学問的業績とは別に、どうしたって残念な思いに囚われます12

もちろん、法の支配をいかに現代の社会に生かしていくべきか、という視座を持つことは大切なことです。

ただ、法曹が真に掲げるべき目標は何でしょう。それは、色々な表現はあるとは思うのですが、あえて、何かの隠れ蓑となりかねない言葉を真っ正面から使わなくとも良かったのではなかろうか、と、今更ながらに些細というか余計なことを思ったりもするのです。

以上、言いたいことは概ね言い尽くしましたので、4月からは本来の業務に専念しようかと思います。このところ、どうしても司法制度改革の行く末が気になって仕方がなかったので色々と述べてきましたが、賛否はともかく少なからぬ反応を頂き、有り難いことでした。司法制度改革のあり方を巡っても、善き社会を見据えての活発な議論が、少しでも多くの方々により交わされる環境となるよう期待したいと思っています。

 

 



  1. 早速そのスローガンを使用して頂いておりますので、この点はとりあえず日弁連新会長のごあいさつをどうぞ。 

  2. 当時はロースクールも設立されておらず、大学院は司法受験生を寄せ付けない雰囲気も感じられたので、私は4回生終了時点で2単位を残し以後休学した。残った2単位を取得して卒業したのが7回生の10月であった。既に、その時点では兼業の許可を得た上で司法修習生になっており、随分と変則的な大学生活を経ることになった。 

  3. もう一つ可能性があるとすれば予備校でP&Cの井藤先生(現・岡山大学大学院法務研究科教授)に教わったのかもしれないが、これも今となっては定かではない。 

  4. 実際のところは、東京は人多過ぎで住んでられない、埼玉は暑過ぎて住んでられない、札幌は雪多過ぎて住んでられない、等の理由も無いわけではない。 

  5. この点を問題提起したものとして、愛敬浩二「「法の支配」再考 : 憲法学の観点から」(PDF)社會科學研究第56巻第5/6号(2005)、石澤淳好「「法の支配」論への一つの懐疑」(PDF)東北薬科大学一般教育関係論集第22巻(2009)、がある。 

  6. それでも、誰がやるのかと思えばやるしかない、ということであろう。 

  7. 長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』149頁(東京大学出版会、2000) 

  8. 井上達夫『法という企て』37頁(東京大学出版会、2003) 

  9. もっとも、井上教授自身は法の支配に関する議論を発展させて、「強い構造的解釈」というものを提唱している。井上・前掲57?67頁。 

  10. 長谷部・前掲149頁 

  11. もちろん、前掲の司法制度改革審議会の意見書では、法曹人口以外の方策についても総花的な提言をしていないわけではないのだが、そのうちまともに実現したものはどれだけあるのか、という点についての疑問は尽きない。 

  12. この点、小林正啓弁護士が「佐藤幸治教授に足りないもの」という記事にて述べられているような、辛辣な意見も存ずるところである。