やればできる!必ずできる?

潜伏の時代

時は世紀末のころ、私がJ地下(いわゆる法学部の建物の地下のことです)にてくすぶっていたころの話ですが、当時、少なからず滞留していた司法試験を目指す受験生たちはゾンビの如く化して日々熱心に勉強していました。

私もそれを目の当たりにしながら受験勉強に励んでいたのですが、法律の理解はそう容易に進んでいたというわけではありませんでした。

それでもなんとか司法試験に通りはしましたが、気になったのは、中には自分よりも勉強を必死にしている人もいたし、自分よりも能力が高い人もいたということでした。それでも、試験に落ちる人は少なからずいました。

 

成果は必然か

やればできる、必ずできる、という人もいました。それは、概ね、強靱な意欲と能力を持ち尊敬に値する人たちでした。しかし、私が見たのは必ずしもそのような人たちばかりではなく、やっている人たちが死屍累々と重なる光景でもありました。

そんな中、私が試験に合格して法曹への途が開いたとして、それは一応の勉強や努力はするのかもしれませんが、最後はたまたまなのではないかとの思いがありました。実際、たまたま受かったような成績だった訳です。そのたまたま得られた立場をどう生かすべきか、そんなことを考えて答えも出ずに自問自答していたのが、受験時代を経て司法修習にかけての時期でした。

 

能力をどう生かすのか

能力は社会の共有財産である、という考え方があります。

生まれつき恵まれた立場におかれた人びとは誰であれ、運悪く力負けした人びとの状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利得を得ることが許される。有利な立場に生まれ落ちた人びとは、たんに生来の才能がより優れていたというだけで、利益を得ることがあってはならない。利得を得ることができるのは、自分たちの訓練・教育にかかる費用を支払うためだけであり、またより不運な人びとを分け隔てなく支援するかたちで自分の賦存を使用するためだけである。1

ちゃんと授業に出て法理学の勉強をしておけという話なんですが、ロールズといえば田中成明教授が法理学の講義でさんざん取り上げていたのだそうで、しまったなあ、と思いました。私は何をやる科目か分からず端から敬遠していましたから、実にもったいないことをしました。

 

欠けていた視点

過去に法学の勉強をしてきて、表面的には、人権ピラミッドの体系がどうであるとか、違憲審査基準がどうだとか判例がどうだとか色々覚えてきましたが、私は、法律を使えるようになろうとか、資格を取ろうとか思うばかりに技術的な側面にのみ気が向き過ぎていました。

これまで欠けていたことは、いかにして個人が尊重されるべきか、そのための共同体としての社会はどのようにあるべきか、そして、そのような社会を築くために自分はいかに生きるべきか、といった視点ではなかったかと感じています。そんなことを考えなくても、やればできると念じていれば資格が取れたり、仕事にも就けたり、場合によっては経済的な成功も得られることもあるのでしょう。しかし、努力により得られる自らの地位や成果が全てと他人に対していうならば、取り残された人々、更にいうなら尊厳を失った人々による不条理だけが世の中に残るのではないか、近年益々そのような思いを強くしています。

もちろん、そのようなことは、大学で学問の体系をきちんと学んでいれば当たり前の知見なのかもしれませんが、愚かな私は、法学部に入学してから20年近くを要してやっとそこまで到達できたかどうかというところです。まだまだ、物事を考え直していく必要があると痛感しています。

 

 



  1. ジョン・ロールズ(川本隆史ほか訳)『正義論 改訂版』136頁(紀伊國屋書店、2010)