小さな町と大法学者

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オホーツク海に近い場所に位置する遠軽町は、東北学院で学んだプロテスタントのキリスト教徒たちによって開拓が始まったという異色の歴史を有しています。

また、それとは別に、同志社で新島襄の薫陶を受けた留岡幸助という教育者が、家庭環境に恵まれず非行に走る子どもたちのための施設を100年ほど前にここに開きます。これが現在の北海道家庭学校の始まりです。この家庭学校は現在では児童自立支援施設という位置づけがなされていますが、私立の施設としては全国でも稀な存在です。

さて、かつて、この家庭学校を一度は訪ねてみたいと長い間切望し、宿願かなって見学に訪れることになった偉大な刑事法学者がいました。

五月一八日、遠軽の簡易裁判所に少憩ののち、期待に胸をふくらませながら、家庭学校に出かける。車が「家庭学校」とだけ書いた大きな標札のかかっている正門を入り、やがて左手に洗心寮というのを見ながら管理棟の玄関に近づくと、真赤な頬をした金ボタンの生徒たちが、ちょうど昼飯時で、そのあたりに十人か二十人ばかり集まっていたが、まだ車内にいるわたくしをみつけて、口々に「今日は、今日は」と元気のいい声をかける。世間のいわゆる非行少年たちなのだろうが、何という明るい、のびのびした、活発な、人見知りをしない、可愛い子供たちだろう。わたくしは、もう胸のつまる思いがして来た。(団藤重光『わが心の旅路』305頁〔有斐閣、1986〕)

団藤先生は、最高裁判事在任中に札幌高裁管内の視察の一環としてこの家庭学校に立ち寄り、そのときの思いをこのように語っています。郷里の備中高梁の大先輩として、また恩師の牧野英一が傾倒した人として、創設者の留岡幸助を身近に感じていたようです。

わたくしは、今更ながら留岡先生の偉大さに打たれた。そうして、また、留岡先生と意気投合した牧野先生の姿を思い浮かべて、牧野刑法学の根底に流れるヒューマニズムの精神を改めて感じ取ったのであった。(前掲309頁)

このように、非行に走る少年を預かる施設において人間的で暖かい雰囲気が流れていることにじかに触れた団藤先生が、改めて創設者と恩師のことを想い起こし、甚だ感激していた様子が良く伝わってきます。私としては、家庭学校を見るためにわざわざ遠軽まで赴かれたいうことだけでも、団藤先生への益々の敬意を抱きました。

今はどうか分かりませんが、私が札幌で司法修習をしていたころには泊まりがけでの家庭学校の見学がありました。

私が遠軽に行った時期は2月で、氷点下10度くらいはありそうな酷寒の中、子どもたちと雪の中を歩いたり、牛の世話やスキー場の設営の手伝いをしました。この施設は開放的な作りですし、指導役の先生は夫婦で寮に住み込んで、農作業などを子供達と一緒しながら暮らすという家庭的な雰囲気の元で運営をしているので、関わる人たちの苦労は大変なものであろうと思いました。

かつて団藤先生も大変な感銘を受けたようですが、この施設は処遇が難しい子どもたちにとって最後の救いの手ともいうべき存在であり、その独特な運営方針からいっても今や大変貴重な取り組みを行っている施設です。

今後も、息長くこの施設の取り組みが続くことを願っています。

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