9条のことは嫌いでも、9条解釈は嫌いにならないでください

9条削除論

安全保障法制をめぐる議論が広がる中、9条削除論というものが注目を集めているようです。これは、法哲学者の井上達夫東京大学教授が以前より主張していた見解です。

そこで同教授の近著を拝読しましたが、率直なところ違和感が尽きません。その原因がどういうことにあるのか、同教授が修正主義的護憲派として批判の対象としていた、憲法学者の長谷部恭男早稲田大学教授の見解と比較しながら、考えてみることにします。

見解の比較

単純化しすぎるきらいもありますが、図式化してみます。

井上説の要旨長谷部説の要旨
憲法9条の存在意義安全保障の問題は、通常の政策として民主的プロセスの中で討議されるべきであり、ある特定の安全保障観を憲法に固定化すべきではないから、憲法9条は削除すべきである。憲法によりそのときどきの政治的多数派によっては容易に動かしえない政策決定の枠を設定し、そのことを対外的に表明することは、合理的な対処の方法といえる。憲法9条による軍備の制限は合理的な自己拘束の一種と見ることが可能である。
解釈改憲について憲法9条解釈としては、文理の制約上絶対平和主義を唱えているとしか捉えようがなく、専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は9条に違反しないという旧来の内閣法制局見解は、既に解釈改憲である。修正主義的護憲派は、自分たち自身が解釈改憲をやっているのだから、解釈改憲を批判する資格はない。いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なお守るべき理由がある。いったん譲歩をはじめると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏み止まるべき適切な地点はどこにもないからである。同じ状況は、憲法9条の下で守られるべき具体的な制約を設定する場合にも妥当する。
参考文献井上達夫
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』
(毎日新聞出版、2015)
長谷部恭男
『憲法と平和を問いなおす』
(筑摩書房、2004)

憲法の役割からの検討

井上教授は、憲法の役割はフェアな政治的競争のルールと被差別少数者の人権保障のためのルールに限定されるべきであり、通常の政策は民主制の過程で議論されるべき、と捉えています。安全保障の問題は、通常の政策であるから硬性憲法で規定されるべき問題でない、ということです。

しかし、安全保障の問題は通常の政策でしょうか。戦争が起きれば、確実に人が死にます。多くの人が死にます。誰が死ぬのかといえば、戦地に行かされた者か、内地で安全な所に居られなかった者が、高い確率で死にます。それらの人たちは、理由もなくそのような運命?善く生きることを奪われる運命?を押しつけられる少数者なのではないのでしょうか。だとすれば、安全保障の問題は単なる通常の政策としての範疇を超えた問題であり、憲法でこの問題について定めておく意義があります。

もう一つ、安全保障の問題を硬性憲法で拘束するのは許されないパターナリズムだ、との指摘があります。エリートが民衆を正しい方向に導くように指導する、といったパターナリズムは許されないということです。

しかし、人間である以上、エリートも、そうでない人も判断を誤ります。そして、安全保障の問題で判断を誤れば、先述のとおり差別された少数者の人権が奪われます。これは人間の属性を問わず、運悪く差別された少数者の立場に立たされる可能性があるすべての国民に関わる問題です。そうだとすれば、安全保障の問題に関する定めは、特定の支配者が命令するパターナリズム的な拘束ではなく、過去から現在に至るまで連綿と、国民が皆で自分たちのことを拘束してきた、文字どおりの「自己拘束」と評価されるべきものです。

安全保障の問題には政策の要素が当然ありますから、その限りでは民主的プロセスにおいて議論されて然るべきものです。しかし、民主的プロセスにおいて討議した結果が正統性を得られる場合というのは、討議に必要な情報が十分に流通し、有権者が適正に代表を選出し、代表が的確に討議を行った場合に限られます。そうでなければ、何の理由もなく他人に自分が拘束されることになるからです。

もっとも、議会制民主主義の建前を取っている国でも、このような条件は常に満たされるとは限りません。そうであるならば、民主的プロセスが不全な場合に備えて、安全保障の問題について事前に厳しい拘束を掛けておく、ということには合理的な理由があります。

なお、別の視点からは、我が国が、過去も現在も、制度的に民主的プロセスの正統性を確立し、それを維持できてきたのかどうか(例えば、表現の自由は十分に維持されているか、投票価値の平等が実現しているか、など)、ということは改めて問い直すべきことでもあります。

以上の次第で、憲法9条には、削除してはならない固有の存在意義があると考えられます。

解釈の限界

そこに意義あるものが存在するのだとすれば、その意味内容を決するのが解釈の問題です。不自然な、あるいは非常識な解釈を避けるために削除すべきというのではなしに、向き合わなければなりません。法文に矛盾があれば、良く悩み、その意味内容を探って解釈論を展開することは不可欠です。

それが、基礎法学者、実定法学者、あるいは実務家を問わず、法律家の果たすべき努めだというように思います。

文理からいえば、井上教授のいうとおり、憲法9条は絶対平和主義を規定したものと解釈されます。しかし、そのような理解をすると、絶対平和主義、すなわち、侵略されて殺されようとも殺さない、という特定の生き方を国民に押しつけることになります。そのような解釈は、異なる価値観の共生を目指す立憲主義の立場とは相容れません。不正な侵害がなされる極限の事態においても、服従するか、抵抗するか、逃げるか、いずれを選び取るかは、それぞれの人間の生き方の判断?人はいかに生きるべきかということ?に委ねるべきものです。

そこで、立ち返って、憲法9条の意味内容を考えて解釈しなければならない必要に迫られるのです。ここで、長谷部教授は、憲法9条はある問題に対する答えを一義的に定めるもの(=準則)ではなく、答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまるもの(=原理)である、といいます。このような条文の性質への理解を前提として、条文にはない個別的自衛権を認め、その行使のために自衛隊が存在することが許される、というように解釈します。

しかし、それでもなお、自衛隊の権限や装備については、憲法9条の原理を踏まえた厳しい制約が課されてきました。その自衛隊がどこまで活動できるか、ということに関しては長年政府が解釈を積み重ね、かつ、解釈を明言してきた事実があります。集団的自衛権に関していえば、それは行使できないという線が引かれてきました。

この一線は、踏み越えてはならない解釈の限界です。なぜなら、踏み止まることができなければ、憲法9条の原理としての性質を完全に破壊することになるからです。それは、憲法9条が存在し続けていることを前提とする解釈論としては、論理的に許される範囲を超えます。

このような理由で、自衛隊や日米安保条約を合憲と解釈していた立場の人であっても、集団的自衛権を容認することが許されない、と主張して矛盾しないことになります。解釈にも論理的な限界がある以上、いずれも解釈改憲ではないか、との批判は当たりません。とりわけ、安全保障の政策を拡大する方向の立法がなされるのであれば、憲法9条の原理性を意識して解釈を行わなければならないでしょう。

おわりに?知的廉直性の最果てから

そんな訳で、私としては井上教授の見解にカリカリしていたところ、大学で真面目に法哲学の講義に出ていたパートナーからは「あの先生はシニカルな言い方をするからねえ…」と、軽くたしなめられてしまいました。もちろん、優れた哲学者からは学ぶべきことも多いのです。ただ、この件だけには何か言うべき必要を感じた次第で、浅学菲才の身を顧みず筆を執りました。

研究者が真剣に考えて達した結論を表明されるのは大変結構なことですが、私が危惧しているのは、「9条削除」という言葉が一人歩きしていることであり、実際、この結論を強調する支持者もいるようですので、いささか脅威に感じています1


  1. 9条削除論をめぐる動きに疑問を呈したところ、首都大学東京の谷口功一准教授から「知的廉直性の最果て」とのご意見を頂戴しなかなか趣深いと思い見出しに使わせて頂いた。井上教授ご自身は時局性に依存しない議論をしていると理解しているが、一部には9条をめぐり護憲的改憲をすべきであるとか国民投票をせよといった意見もあるように見受けられ、誠に奇妙に感じている。ただ、実際のところは、そのような動きも必ずしも多くの支持を得ているようには思われない。 

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