「弁護士たった3万5000人で法治国家ですか」数の問題ではない

久保利英明先生が法律雑誌に連載されていた記事をまとめたもので、『弁護士たった3万5000人で法治国家ですか』(ILS出版、2015)という本があります。

なかなか刺激的なタイトルです。

久保利先生といえば企業法務を中心として多彩な活躍をされる弁護士界の第一人者ですから、そのお話となれば金を払ってでも耳を傾けてみなければならないでしょう。

ということで、アマゾンで出ていた118円の古本を早速ポチっとやって購入してみます。

軒弁は旭川会独特のシステム?

ところが初っ端からこんな記述を目にします。

最近の用語で軒弁、宅弁という表現がある。前者は経営弁護士(ボス弁とも言う)から執務場所の提供を受けるが固定給はなく、事件処理を委託された場合に一定の報酬を受ける執務弁護士について、「軒先を借りている弁護士」という意味でこう呼ぶそうである。かつては旭川弁護士会の独特のシステムであった。(15頁)

ええっ?と思っていたところ、これは当の旭川の会員からも違うんじゃないかという話が聞こえてきました。

最近は良く耳にする軒弁システムですが、道内で私が就職した2003年のころには、札幌で軒弁形態で就職した人が1人現れたのが大変珍しかったことでした。実際、私も就職活動のために旭川にある事務所を訪ねましたが、その時も「イソ弁」での待遇が示されてました。

それどころか、「待遇が応相談なんて書いてある事務所は止めておけ。金の条件もきちんと書けないような所では必ず問題が起こる。」と明快な助言をして下さった先生すら居られたので、旭川の方々には今も多少の恩義を感じています。

ということで、この時点で「こんな立派な先生でもテキトーなことを書くこともあるんだなあ…」という形で本の評価の大勢が決してしまいました。後は全力で流し読む意欲が沸いてきます。

司法制度改革への深い理解

何かと司法制度改革反対派からは槍玉に挙げられることが多い久保利先生ですが、司法制度改革によって生じた様々な問題点について、十分に理解されておられる様子は伝わってきます。

すなわち、法科大学院が開設された2004年頃には、今後すべての新卒弁護士が弁護士事務所に就職することは不可能であると予測されていた。だからこそ幅広い分野で活躍する多様な人材が求められたのである。その後の推移はその推論の正しさを実証している。(27頁)

全くそのとおりです。予測のとおりの事態が進行しています。

この1から3の対策が失敗し、法曹資格取得のためのコストと資格取得の利益や魅力のバランスが釣り合わなくなった場合は、マーケットメカニズムによって法曹志望者は減少し、ロースクールの整理統合は避けられず、司法試験合格者が減少するのも当然である。(56頁)

これは、末永進元札幌高等裁判所部総括判事が母校の函館ラ・サール高等学校同窓会に寄稿した「民事訴訟はなぜ時間がかかるのか」という記事に対する意見です。

1から3の対策というのは、大要、1法曹の多様性の確保、2適切な競争環境の創出、3法曹倫理教育の強化、です。

いずれも失敗した結果を的確に言い当てています。

仕事が増えても予算がないから人は増やせない。となれば、サービス残業か法テラス所属弁護士の過労死か。法テラスがコンプライアンス違反の巣窟となっては悪い冗談では済むまい。だから新政権(注:当時の民主党政権)にとっては法テラスに相応しい予算配分をすることが至上命題である。(63頁)

法テラスへの予算配分を強化する必要性があることについて良く理解を示されておられるのは、有り難いことです。

「法テラスがコンプライアンス違反の巣窟」というくだりには深い造詣が感じられ、思わず苦笑いさせられます。

法科大学院は法曹を法廷・訴訟活動という事後処理中心の狭隘な分野から解き放ち、経済活動や市民の日常生活で役に立つ、社会生活上の医師を大量増員するための仕掛けだったのである。

文部科学省が法科大学院を勧奨するならこの視点から弁護士活用策を講じるべきだった。しかし、教員の中核となる教員は旧態依然たる法学研究者であり、専門職である弁護士や裁判官など実務法曹による基礎科目授業は認められなかった。

法曹養成の要ともいうべき法科大学院を、一人の法曹も養成したことのなく、ポスドクと呼ばれる博士の活用もできず、企業の求める人材育成もできない文科省に任せたことが実施設計失敗の大きな原因である。(148頁)

司法制度改革失敗の戦犯探しをするのは見苦しい気もしないではないのですが、確かに、ここまでの失政をリードした文科省の責任は重大でしょう。

ただ、本書によると、かつて久保井日弁連会長は久保利先生に対し次のように仰っていたそうです。

予算をもぎ取る気持ちも能力もない最高裁事務総局よりは文科省の方が予算面ではずっと頼りになる。日弁連は文科省を徹頭徹尾支えるべきだ。(108頁)

そうしてみると、結果的には、毒まんじゅうを食ってしまったということなのでしょう。おそらく、毒が廻って死ぬのは彼らではなく未来の法曹なのですが。

確かにここ数年来、法科大学院の志望者が大幅に減少している。こうした事態を招いている最大の理由は、「司法試験の合格率が低すぎること」である。数百万円の費用と2年ないし3年の期間を投じても受験する試験の合格率が3割にも満たないような制度にしておいて、「法曹を目指せ」という方が無理なのである。(227頁)

司法試験の合格率が低すぎることが最大の理由かどうかは、異論があります。

ただ、後段については、「司法修習給費制の復活を求める」という記事に書いたように、僭越ながら当職も同じことを10年以上前からいってました。今から法曹を目指せというのが無理筋だというのは、これだけ立派な先生だったら分かっていないわけはありません。

法曹はどうあるべきか

司法制度改革は大きな社会問題をもたらしてはいないのでしょうか。

まずは、自分の足元を見て、正面から問い直してみるべきです。

かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性のある法曹であれば、あるいは、社会に生起する様々な問題に対して広い関心を持っている法曹であれば、社会に生起する問題を直視して、実際に社会への貢献を行うのは当然のことです。

そういう法曹は次々と養成されているはずなんですが、あれっおかしいなあ、いやおかしいのは私の方なのかしら、そうだなきっと人間性を欠いた私がおかしいのだろう、と在野の一法曹として日々苦悩しています。

まとめ

そんなわけで、強引に読後感をまとめておきますと、弁護士を幾ら増やしたからって法治国家(実質的な意味の)はそう簡単に実現する訳じゃないだろうな、という感想を持ちました。

もはや数の問題で何とかなるものではないように見えます。

それでもなお、「社会生活上の医師」を僭称して、衰弱し切った患者に負担の強い外科手術をむりやり勧めるが如き一団が世の中には存在しているようです。

当職は、文句も程々に自分の能力や資質を高めることにして、せいぜい社会生活上の医師の不養生などとはいわれないよう努めたいと思います。

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