成仏理論ということを提唱した学者の先生がいらっしゃいます。
こういう理論だそうです。
問題の捉え方がそもそも間違っている。食べていけるかどうかを法律家が考えるというのが間違っているのである。何のために法律家を志したのか。私の知り合いの医師が言ったことがある。世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない、と。人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか。その上に、人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう1。
成仏理論を唱えた某先生は、東京大学を退官後、立派な事務所に天下りされておりますので、間違いなく飢え死にはしないでしょう。
しかし、人々の役に立つ仕事をしても、経済的には苦しい弁護士も少なくないご時世ですから、怨嗟の声も聞こえてきます。人の恨みを買うようでは、某先生が成仏するのは困難でしょう。
私はといえば、寿命が来れば成仏したいと思いますので、報酬は有り難く頂戴しております。
失礼な例えではあるかもしれませんが、お坊さんと破産管財人の職務を比べてみると類似した性質を有していると思うことがあります。
一方は人の肉体的な死、一方は人や企業の経済的な死を扱うということですから、類似するのももっともなことです。お坊さんは葬式でお経を読み、破産管財人は債権者集会で「破産管財人の報告書」を読みます。そしてお葬式で故人を惜しむ人がいるのと同様、債権者集会で破産者を励ます債権者がいたりすることがあるのも共通しますし、その逆で怒号が飛び交うこともあります。
さて、お坊さんの仕事は人が亡くなると発生します。弁護士の仕事も人のトラブルがあると発生します。
しかし、人のトラブルというのは本当はあまり生じて欲しくないものです。世の中もめ事ばかりでは沈滞してしまいます。
そうすると、私などは、弁護士が大々的に広告を打っている昨今のご時世については、少々疑問を持っているところです。
例えば、交通事故で弁護士が付けば、実は相応のメリットがあることが多いのです。しかし、人が死んだり大きな怪我をしたりという背景があるのですから、交通事故そのものは、当事者にとっては実に嘆かわしい出来事です。あまり広告を打ちすぎると、弁護士という連中はそのような事態が生じるのをむしろ期待しているように思われたりしないのだろうか、とナイーブな私としては大変心配になるわけであります。
もっとも、弁護士に頼めば自分の利益を最大化しうるということは広く知っていただく必要があること自体は否定しません。そこで、そのような事実については、控えめに、地道な活動により人々に浸透していくのが理想的なことではないかと思います。
私としては、こうした活動の積み重ねにより成仏できるのであれば、本望であります。
高橋宏志「成仏」法学教室307号巻頭言(2006) ↩