城跡と裁判所(9)長崎地方裁判所島原支部

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長崎地方裁判所島原支部は、島原城の城下にあります。写真でも島原城が右上の方に写っているのが確認できると思います。

島原城は江戸時代の初期に松倉重政により築城されました。

もちろん、松倉氏より後の歴代の城主は善政に尽くした歴史もあるでしょうし、また、現代は裁判所が権力機関として明白に少数者を弾圧するとかいう時代ではないのかもしれないのですが、この城の成り立ちを思うと、裁判所が城の近傍にあるということに関してはかなり複雑な思いを持たざるを得ない場所の一つではあります。

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島原城に行ってみると、街の規模からすれば相当に大きい雰囲気であるため違和感があります。

それもそのはずで、松倉重政によりこの城が築城された際、領民から過酷な収奪を行って過大な築城を行ったという経緯が存在します。今に残る城跡も、かなりの暴政の成果と思うと痛ましいものがあります。

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松倉重政は、その治世においてキリシタンを徹底的に弾圧しました。

ここは雲仙の山中にある地獄と呼ばれるところですが、転宗しないキリシタンに拷問を行い、挙げ句、このような熱湯の湧く谷に放り込んで虐殺しました。我が国においてこのような事件があったことは、宣教師を通じて世界の知るところとなりました。

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雲仙地獄を見下ろす丘の上には、今も、このとおり過酷な弾圧により殉教した人々を悼むべく、長崎大司教区による記念碑が建立されています。

 

さて、島原城からはかなり離れますが、キリシタン弾圧の歴史の跡を辿るべく原城を訪ねました。

島原の乱(1637?1638年)では、ここに反乱を起こしたキリシタンを含む諸領民が立てこもりましたが、約1万人が餓死し、籠城して残った約2万7000人も幕府軍に皆殺しにされたという凄惨な歴史を有する場所です。

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城跡をめぐっていると段々背筋に寒気が走ってくるのを覚えました…いや、間違いなく何かが出ているはずです。

近年の発掘調査まで、島原の乱の戦死者の骨が大量に埋まっていたようですし、まだ残っていないとも限りません。

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原城本丸の裏手となる海に面した崖には、海に向かって十字架を持った石像が並び、今も戦死者を悼んでいます。余りに悲痛な姿です。

 

島原及び天草の地域は、16世紀の後半以来、交易を通じてカトリックの布教が進んでいた地域でしたが、それ故に、布教以来大変な弾圧を受け続けてきた地域でもあります。

我が国において信教の自由がこれほどまでに先鋭的に問題となり続けてきた場所は多くはないように思います。

この地域の人々は、文字通り命を賭けて、その信仰を400年以上の時を経て現在に至るまで維持してきました。これも我が国の有する極めて重要な歴史の一つです。彼らの払ってきた幾多の犠牲が礎となって、信教の自由が保障されるようになったのです。

少なくとも、今の憲法に信教の自由が書いてあるのは、短期間に押しつけられて決まったものでも何でもなく、この国に生きた過去の国民がその歴史を通じて連綿と願い続けてきたものに他ならないということです。

少し近くを通りがかっただけではありますが、そのような歴史の重さを感じずにはいられませんでした。今日、信教の自由が基本的人権の核心をなすものの一つであるということを、改めて痛感させられた次第です。