城跡と裁判所(27)高知地方裁判所

 

少し前の話ですが高知城を訪ねていますので、その際のことについて触れたいと思います。

高知城も天守が現存している城の一つであり、現在に至るまで地元の方々の多大な努力によって建物や石垣が良く維持されています。

 

 

天守のあるところから高知地裁を見ると、こんな感じで庁舎の裏側が良く見えます。

城の隣に裁判所、という立地になっていることが、城に登るとはっきり分かる様子になっています。右隣は検察庁です。そして、この写真には写っていませんが、左隣に高知県庁が所在しています。

 

 

さて、高知というと自由民権運動の根城でもあり、高知市内には自由民権記念館という施設があります。

訪ねてみると、「じゅっぴー」という名前のゆるキャラがお迎えしてくれます。ただ、自由民権運動って結構人が死んでいるので、ゆるキャラで語れるようなゆるい話ではないようにも思うんですが…。

明治期の高知からは植木枝盛や中江兆民といった偉大な思想家が出ており、現代から眺めても彼らの先進性には驚かされます。いかなる土壌からこのような人々が生まれたのかということは気になりました。

 

 

そして、自由民権運動は板垣退助という大物政治家も産み出しており、高知城内にはその銅像が立っています。撮った角度が悪過ぎて顔が映っていませんが、これは板垣の像です。

「板垣死すとも自由は死せず」で知られる件で、暴漢に襲撃された板垣の介抱に当たったのは竹内綱、つまり吉田茂の実のお父さんでした。そしてその孫は…と辿って行くと、自由民権運動の血は今の政界のかなりど真ん中にも受け継がれているはずなのですが、はたしてその精神はどこへ行ったのやらと思ったりすることがあります。

 

 

ということで、高知の歴史を見て歩くというととにかく竜馬!というイメージではあったのですが、それ以外の見どころも少なくないということを知ることができ、大変有意義であったと思いました。

 

 

城跡と裁判所(26)高知地方裁判所中村支部

四万十川は、洪水になると沈んでしまう沈下橋という橋がいくつも架かっていることで知られていますが、どうにも天気が悪い時期に行ったため、実際に沈下橋が濁流に飲み込まれて沈んでいる姿を見せつけられながら、四万十川の下流域までやってきました。

高知県の西側の端に近いところに四万十市は位置しています。

高知の空港からの距離が結構あるので、全国的に見ても、東京から行くのが大変な裁判所支部所在地の一つに数えられるのではないかと思います。

 

 

さて、裁判所の中村支部は、四万十市の市街地にあり、裁判所の裏が城跡になっています。

裁判所の前の水路には四万十川の伏流水が流れ、せせらぎが聞こえてきて大変美しい雰囲気の裁判所です。

また、裁判所の隣には検察庁があるんですが、その裏にはこの地の出身であった幸徳秋水の墓があります。でっち上げられた事件で死刑になった人がいつも後ろから見ていると思うと、凄まじい緊張感がありますね。

 

 

裁判所の裏の山の上には天守が建築されていて、郷土資料館になっているようです。

 

ところで、帰ってきてから、「中村方式」(集まった者から順次始める宴会の方式)と呼ばれるものが存在するということを知ったのですが、残念ながら現地で検証することができませんでした。改めてそのような機会があることを期待したいと思います。

 

 

城跡と裁判所(25)松山地方裁判所

 

四国最大の都市である松山市にやってきました。

もちろん、人口以外の要素も含めると何をもって最大かという問題はあるわけですが、念のため申し上げると、四国で人口最大の都市は高松市ではなく松山市です。

松山城の天守は比較的新しく建築されたということもあり(といっても江戸時代の末期ですが)、しっかり残っています。

城郭の造りも立派で、眺めも良く、大変な名城ですので、余計なことは言わずに写真を載せておくことにしたいと思います。

 

 

さて、このコラムは、城跡と裁判所の関係を論ずるものであることを忘れておりましたが、裁判所はどこにあるんだという感じですね。

このあたりです。

 

 

だいたい矢印の下あたりに松山地裁があります。

裁判所自体は四角くて大きなコンクリートの建物ですので、勝手ながら写真は省略します。何がいいたいかというと、城下にあるはずの裁判所が目に入ってこないくらい城郭が立派過ぎるということで、そのくらい素晴らしいわけです。

他にも見どころが尽きない街なので、やはり、改めて街歩きをしに来なければならないということを思いました。

 

 

城跡と裁判所(24)松山地方裁判所大洲支部

 

松山から宇和島に向かう途中、寄り道をして大洲城にやってきました。

天守は平成の時代に入って復元したものだということですが、この種の建物としては大変珍しく木造での再建を果たしたということで(たいていは復元するとコンクリートの建物になってしまう)、地元の方々の気合いが感じられます。

 

 

大洲の裁判所です。

城下町に所在する裁判所の例に漏れず、周囲の狭い道路を辿っていくと庁舎が現れます。

裁判所の規模としてどのくらいだろうかと思い、松山地裁のウェブサイトで法廷担当を見たところ同期が赴任していました。判事1名の支部だと地域の司法の全権を握っている感じで(勝手なイメージです)、大変なのだと思います。

 

ところで、大洲市やその周辺は、夏の台風で川が氾濫して大きく被害を受けたところもあり、私が行った時にはその影響がまだ残っている感じでした。そんな時期に訪ねて申し訳なくも思いましたが、復旧が進むことを願っております。

城下を流れる肱川では、鵜飼が夏の風物詩となっているということでしたので、再訪してゆっくり風景を眺めてみたいと思いました。

 

 

城跡と裁判所(23)松山地方裁判所宇和島支部

宇和島城は天守閣が現存する12の城の一つです。

そんなに大きな天守閣ではないのですが、昔のものが残っているという点で見るべき価値は十分にあります。

何でまた仙台から遠く離れたこの地へ来たのかという気もするのですが、伊達政宗の子が入って以来、宇和島藩は伊達家が代々治めていました。城下にある伊達博物館に行ってみると、そのあたりの経緯を確認することができます。

 

宇和島の裁判所

宇和島の裁判所に行ってみました。

伊達博物館の玄関ホールに描かれている昔の地図では、かつての裁判所は城の近所に存在していたことが分かります。ただ、現在の裁判所は移転しており、宇和島駅に隣接して存在しています。

駅から近いのはいいんですが、そもそも宇和島駅は行き止まりで四国の鉄道網の一端をなしていますから、松山からでも行くのは結構大変そうです。

 

銅像になった人

さて、宇和島城に戻ってみると、城下には著名な人の銅像が存在しています。

これは、護法の人とも呼ばれた児島惟謙です。

大津事件での活躍が良く知られていますが、それ以外にも関西大学の設立に貢献するという大きな功績を残しています。その縁で関西大学にも銅像があると聞いたことがあります(残念ながら見たことはないのですが)。

 

橋になった人

次は、銅像にならなかった人の話です。

「老生は銅像にて仰かるるより萬人の渡らるる橋になりたし」とあります。

民法起草者の一人である穂積陳重が語ったとされています。それで、功績を称えるべく、穂積橋という名前の橋が宇和島市内には架けられています。

銅像なんかになるよりも人に踏まれる方がよいというのですから、やはり、昔の偉大な法学者は考えることが普通ではありませんね。当職も、人々に踏まれ続けてもなお輝き続ける阪急梅田駅のホームの床のような存在でありたいと願っています。

 

鯛めし

営業時間の都合で行けなかったのですが、橋の右手に映っているお店はこの地方の名物である「鯛めし」の名店として知られているようです。

宇和島の鯛めしは、鯛の刺身が乗った飯の上から出汁を掛けて食べるというスタイルであり、するすると食べられてしまうので大変危険です(美味しい)。

 

まとめ

以上、宇和島は、お城の天守閣を見に行くだけでも十分に価値があるのですが、法律家には馴染みの深い先人たちの痕跡も残っていますので、法学マニアな向きには実に興味深い地であるということを思いました。

 

 

犬も食わない分限裁判

東京高裁の岡口基一判事が分限裁判による懲戒の申立をされたということで、ご本人自らその記録を公開しておられる。以下のリンク先にあるとおりである。

分限裁判の記録 岡口基一
https://okaguchik.hatenablog.com/

 

裁判官と表現の自由

岡口判事の投稿するツイートに関しては当たり外れがあり、例えば、当職もブリーフでパンイチになっている姿を見たいと思うわけではない。また、現職の判事が、他の裁判内容や政治的な事件について、どこまで投稿できるだろうかと思ったことも、ないわけではない。

だが、判事の職にあるからといって、何も言えないということにはならない。

それに、実名で裁判官であることを明らかにした上で日頃から表現活動を公開している人は稀であるから、岡口判事の活動には敬意を払っていた。裁判官にもそのような人がもっと多く出るべきであると思うし、静まり返っている状況は不自然に思えてならない。

もっとも、組織の人間は余計なことなど言わずにひたすら黙ってろ、というのが社会の多数派ではあるのかもしれない。

本来は自由であるにもかかわらず、ひとたび何かを言おうとすれば、実にこの世は生き辛いのである。

 

統制的な司法の在り方

今回、懲戒申立の理由とされたのは、犬の返還請求事件に関する岡口判事のツイートである。

このような事件だったようだ。
https://sippo.asahi.com/article/11544627

犬の取り合いとなった訴訟を紹介する岡口判事のツイートの内容が、元の飼い主の感情を傷付けたというようなことが懲戒の理由としては主張されている。しかし、岡口判事のツイートに書いてあったこと自体は、当事者の主張の要約と取れる内容に過ぎない。

むしろ、当該訴訟の報道から読み取れる限りでは、元の飼い主が勝訴したからといって非がないなんてことはない事案である(なお、岡口判事はそこまで言及していない)。

だが、たまたま訴訟当事者からクレームが付いたことを口実に、岡口判事を処分してやれという空気があるのだろう。裁判所内部では、あいつのツイートのせいでクレームを言って来る奴が次々出てきて超迷惑だから何とか黙らせろ!と思っている人が多いのだと思う。しかし、懲戒の申立まで至るのでは、さすがに萎縮効果が著しい。そのようなゴタゴタをしっかり見ている人たちからは、裁判所は信頼されなくなると思う。

我が国では、裁判所の権力基盤がなお脆弱だという現状認識に基づいて、他からの干渉を避けるべく強度に統制的な司法行政を行うことも正当化されると考えられているのかもしれない。しかし、それでは陰湿で窮屈な職場だということで、長期的には優良な人材に避けられるという問題が出るように思う。また、統制の方向性次第では政治部門との違いがなくなり、裁判所固有の役割を失うことにもなる。

そんなことで司法の機能が損なわれては司法の不幸であるし、結局は、国民の不幸でもある。

 

まとめ

以上、市民としての自由を十分に保持したいと思う人は裁判官にならない方がいいよ、というのがこの騒動の率直な感想である。自由を擁護すべき人には自由はない、という現代日本の不思議がそこには存在する。

岡口判事が再び元気にツイートされる姿(但しブリーフ姿を除く)を見られる日が来ることを願っている。

 

 

間違いを 許してくれぬ ソクラテス(法科大学院の講義における具体的問題点の考察)

法科大学院の時代になって法律の講義方法にも変化が見られるようになり、いわゆるソクラテスメソッドが実施されることも一般的になった。

私はそのスタイルの講義を大学では受けなかったが、佐藤幸治先生が「ハーバードのロースクールでは~(以下略)」みたいな話を講義でされていた記憶はあるので、司法制度改革審議会でもアメリカンスタイルなアツい講義を実践したいといった理想が議論され、今のようになったのだと思う。

ところが、これがあまり良い評判が聞こえてこない1。具体的にいえば、単なるクイズをやっているとか、答えられないと怒られるとかいうような話である。

これではソクラテスも浮かばれないんじゃないか…ということで、若干思うところを述べることにしたい。

 

ソクラテスの問答法

出典がウィキペディアなのがちょっとアレだが、ソクラテスの問答法の例を掲げる。

  1. ソクラテスの対話相手がある命題、例えば「勇気とは魂の忍耐のことである」を主張する。この命題のことをソクラテスは偽であると考え、論駁の標的にする。
  2. ソクラテスは追加的前提、例えば「勇気は素晴らしいものである」ならびに「無知に基づく忍耐は素晴らしいものではない」への同意を対話相手から取りつける。
  3. 次に、これらの追加の前提は最初の命題と反対のことを含意するということ、この場合、それらの追加前提から「勇気とは魂の忍耐のことではない」が導かれるということを、ソクラテスが主張し、対話相手もそれに同意する。
  4. 次に、対話相手の命題が偽であること、ならびにその命題の否定が真であることを自分は示した、とソクラテスは主張する。

その論理構造を簡略にしてみると次のようになる。

  1. 対話相手は、「命題Xは真である」とソクラテスに主張する。
  2. ソクラテスは、対話相手に、命題Y・命題Zを認めさせる。
  3. ソクラテスは、命題Y・命題Zが「命題Xは偽である」ことを導くと主張し、対話相手にそれを認めさせる。
  4. ソクラテスは、対話相手が矛盾に陥ったことを示す。

ところで、こういった問答法は、法律実務家はどこかで自然と経験しているように思う。

二つほど例を挙げてみる。

 

口述試験

旧司法試験には口述試験があった。今でも、予備試験には口述試験がある。

口述試験では試験官の質問に受験生が答えていくが、知っていることを誘導に乗ってホイホイ答えていると、それまでの答えと矛盾する質問が出されて受験生がドツボる、という問われ方がされることがあった。

この種の質問の仕方を、当時の受験生は「泥船が出る」などと呼んでいた。乗っかったままだと沈んじゃうから「泥船」である。なお、何とかしようとあがいていると「助け船」が出ることもあった。

今になって思えば、あの試験は、泥船に乗って沈みかけた受験生の反応を見ることにもポイントがあったと思う。単なる法律クイズに答えられるかどうかに止まらず、法律家に求められる問答の能力があるかどうかを見ていたのではないだろうか。

 

反対尋問

反対尋問では、誘導尋問ができる2

一方、主尋問では誘導できないのが原則である3。証言をコントロールしてはいけないからである。反対尋問で誘導してよいのは、主尋問で現れた事項を聞く分には弊害が少ないというようなことが言われる。

ちなみに、訴訟法の教科書には「沈黙が最大の反対尋問」なんていう指摘があるくらいで4、無駄な質問をするのは大変良くない。

反対尋問の目標は、証人の証言に信用性がないことを示すことである。

もちろん、テレビドラマよろしく「私、ウソついてました!」と法廷で白状し始める人もいないわけではないが、一般的にはそうではない。

そこで、反対尋問では誘導ができることを活用して、証言の矛盾を導く手法が使われる。

何をするかというと、ひたすら誘導するのである5。そして、何を誘導するのかというと、証人が答えたことを用いて矛盾を導きたいのであるから、「証人が認めざるを得ない事実」かつ「証言の矛盾を導き得る事実」を誘導する、ということになる。

これは、ソクラテスの問答法と論理構造に共通する点がある(ただ、直接由来すると言えるかどうかまでは知らんので、刑事弁護に詳しい人かソクラテスに詳しい人からツッコミを入れていただけるとありがたいと思っている。)。

 

教育的効果

法科大学院でも司法研修所でも法廷弁護研修でもどこでも構わないのだが、問答法の論理構造を踏まえた上で訓練をすることは、大変良いことである。

ところが、法科大学院でのソクラテスメソッドのやり方をめぐっては、かなり変な話が聞こえてきていたので、残念に思っていた。

その原因は、学生の法律知識や教員の技量の点を措くとすると、ソクラテスの問答法の論理構造が教え手と学び手の間で共通に認識されないまま受け答えがされていることに帰着するのではないだろうか。

だから、ソクラテスメソッドと称して、単なる一問一答に終始したり、間違った学生を吊し上げたりするのではないか、という気がしている。逆に、一部から聞こえるように教育的効果が得られているというのであれば、論理構造を踏まえての受け答えが成り立つことで、学生に自らの理解の足りないところを気付かせるのに成功しているからだと思う。

なお、ソクラテスの問答法によるならば、対話の相手方である学生が間違ったことを言うのは元々想定されている事態だと思うので、学生にしてみればどんどん突っ込まれる体験をしてみたら良いと思う(もちろん不利益を与えられないことが前提である)。

 

まとめ

色々と述べたが、私の場合は法学部に入学してからの視野狭窄ぶりが結構ひどくて、ソクラテスのソの字も知らずに弁護士になっているから、そもそも、この問題について適切にものを言える立場でもない。

とはいえ、問答の作法を身につけること自体は、法律家に必須の素養である6

また、古今東西、法学の学び方には様々なやり方もあるが、工夫を凝らして少しでも良い方法を探求することは、実務家か研究者かを問わず重要な務めだと私は考える。そうでなければ、法に関する技術が後世に残せなくなるからである。

そこで、法科大学院でも、より一層充実した双方向の問答の訓練がなされることを大いに期待したいと思う。

 


  1. 具体的にどのような意見が噴出しているかということについては、次のツイートのまとめをご覧いただきたい。「謎の方法ソクラテスメソッド」https://togetter.com/li/1218984 

  2. 刑事訴訟規則199条の4第3項 

  3. 刑事訴訟規則199条の3第3項柱書 

  4. 田宮裕『刑事訴訟法』〔新版〕319頁(有斐閣、1992年) 

  5. 日本弁護士連合会編『法廷弁護技術』〔第2版〕135頁、140頁(日本評論社、2009年) 

  6. ただ、既にソクラテスメソッドなんて(アメリカの)ロースクールでもやってない、といった意見も耳にするところではある。井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』150頁(毎日新聞出版、2015年) 

ブックレビュー『難しい依頼者と出会った法律家へ パーソナリティ障害の理解と支援』

 

はじめに

これまでの経験を辿ってみれば、当職も、依頼者から理不尽極まりない主張をするよう要求されたり、思うように結果が出なければものすごく罵倒されたりと、大変な目に遭ったことが思い出される。

しかも、嫌な思いに比例して報酬が増える訳ではない。むしろ、経済的に報われない事件の方が、そのようなトラブルが発生しやすい。

そこで、日頃から困り果てていた中、救いの書が現れたということで、早速アマゾンで注文してみた。

 

本書の内容

本書では、「情緒不安定な当事者」「高飛車な態度を取る依頼者」「他者を欺き利用する依頼者」「魅惑的だが不可解な依頼者」「猜疑心の強い依頼者」「一人では何もできない依頼者」などのケースが出てくる。いずれのケースについても精神医学的な知見に基づいた分析と、その対応の例がまとめられている。

どのケースも、ああ、そういうことってあるなあ…、とつい頷いてしまうリアルな内容である。

弁護士業務をしばらくやれば、同様の依頼者に出会うことはある。そして、対応を誤れば、その都度難題を抱えて立ち往生する。これまでなら、困惑しながら経験を積んでいったということになるのだろうが、本書を読むと一気に見通しがよくなる感じはある。

そこで、これは法律家には必読の書である。弁護士に限られない。弁護士が難しい依頼者を扱うのと同様、検察官は難しい決裁官を相手にしなければならないし、裁判官に至っては難しい弁護士を相手にしなければならない(弁護士自身が実に難しい存在であることが少なくない。)。だから、他の専門職においても生かされる内容だと思う。

 

禁断の書

ただ、本書のコンセプトは重大な欠陥を有していると考えるので、その点について指摘しておきたい。

近年の弁護士人口の増加によって、昔のように弁護士が依頼者を選ぶ余裕はない時代が到来しています。特に「軒弁(ノキベン)」や「即独(ソクドク)」を余儀なくされた若手弁護士は、「冷静で、合理的判断ができて、弁護士費用をきちんと払ってくれそうな筋の良い依頼者でなければ受任しない」などと言っていては食べて行けないのではないでしょうか。「難しい依頼者」の事件を引き受け、関係がこじれることなく、依頼者の満足のいく解決を得ることができるなら、弁護士の顧客層はぐっと広がる可能性があります(本書8頁)。

ちょっと待ってくれ。

それは危険である。

難しい依頼者の事件は、本当に難しいのである。しかも、自らが困難な状況なのに難しい依頼者の事件を引き受けるほど危険なことはない。事と次第によっては、事務所が(経済的に)潰れるか、弁護士が(精神的に)潰れるかという事態に至るであろう。

長く仕事を続けるなら無理をしてはいけない。先のある若手弁護士ならば尚更である。

特に厳しいのは、逃げられない立場の弁護士である。例えば、雇用下にある弁護士(イソ弁やスタ弁)などは振られた事件を容易に断れないプレッシャーがあるし、国選弁護事件に関しては容易に辞任できない。

そういう立場にある弁護士に、こういう対処の仕方があるのだからとにかくどうにかやれ、ということで無理をさせると、心を壊して死ぬ人が出ると思う。

もちろん、あらゆるコミュニケーションのスキルを身につけてこそプロだといえるのかもしれないし、また、難しい依頼者は救われなくても良いということではない。ただ、最初からその領域をあてにして無防備に事件を受任すると地獄を見るのではないか。やり切る能力と意欲のある人が、できる範囲で慎重にやるのが限界かと思う。

 

まとめ

以上、弁護士の顧客層はぐっと広がるなどと不用意に語られている点に関しては最低最悪であるとの言葉しか思いつかないが、経験的な話で語られがちであった対人対応の領域が、科学的な知見を交えて学ぶことができるようになったのは有り難いと思う。

そのような成果が生かされて、救われる人が増えれば良いことである。ただ、一方では、無理をして壊れる法律家がこれ以上出ないことを願っている。

 

 

2018-03-17 | カテゴリー : コラム | 投稿者 : Yoshitada Iwata

民事訴訟は本当に充実するのか?

 

現行民事訴訟法施行20周年

現行民事訴訟法施行20周年を記念して、論究ジュリスト24号に特集が組まれており、武藤貴明判事が論文を寄せている1と聞いた。

武藤判事は帯広に赴任されていたことがあり、期日が終わると矢のような速さで争点整理案が送られて来たり、当事者双方ぐうの音も出ないような判決を書かれたりということで、僭越ながら、当時より大変優れたご活躍をされていた印象があった。

そこで、早速取り寄せて拝読した。

 

「充実した審理の阻害要因」

本論文では、弁護士に対して次のように手厳しいご指摘がある2

また、近年、若手弁護士の増加や代理人と依頼者との関係の変化等を背景に、十分なスキルを有しない代理人が、準備不足のまま訴えを提起し、あるいは争点整理手続に臨んだり、依頼者の意向のままに訴訟活動を展開し、争点整理にも非協力的な態度を示すといった傾向が強まっているようにも感じられる。こうしたことも充実した審理の阻害要因になっていることは否定できない。

誠にお恥ずかしいが、まったくそのとおりである。

争点整理手続で当事者に充実した受け答えをしてほしい、といった問題意識は、裁判所サイドから度々聞こえてくる。

しかし、そうもいかない。

いや、そうもいかなくなってきた、ということなのだが、充実した審理の阻害要因という点については思い当たることがあるので、弁護士側として考えられる実情を三点ほど挙げて検討することにしたい。

 

カジュアルな受任スタイル

第一に、弁護士が面談もせずに各地の依頼者を漁るスタイルが流行するようになったということがある。

このスタイルでは、ほぼ必然的に、弁護士が依頼者の事情を十分に把握できないまま事件処理をすることにつながる。事情を知らないまま弁護士が期日に出頭してきても「分かりません」としか回答しようがないし、そもそも本当に大丈夫か、ということになる。

これは、弁護士の宣伝広告の自由化及び広域化がもたらした現象である。もちろん、そのようなスタイルの法律事務所が縮小するという方向性により、この問題が多少改善することはあるのかもしれない。

ただ、そうでないとしても、弁護士と依頼者がコミュニケーションを取るための手段は多様に発達しているのだから、何が何でも事務所に来てもらって面談を要する時代でもないだろう。そこで、技術的な手段を活用して、このような問題を解消するという方向性はあるのではないか、とは思っている3

 

後ろから弾が飛んでくる

第二に、弁護士の依頼者への従属性が強まったということがある4

本来、委任というのはそのような関係ではないと思う5。しかし、弁護士は自分の命令どおりに動く存在だとしか思ってない依頼者は多いし、気に入らなければ解任してやる、次第によっては懲戒請求してやる、と思っている依頼者も存在する。

更にいえば、顧客獲得競争が厳しくなってしまったので、依頼者の無茶な意向にも益々付き合わざるを得なくなっているし、また、懲戒手続の存在がポピュラーになってしまったので6、濫用的な懲戒請求にも今まで以上に警戒せざるを得なくなっている。

こうして、弁護士が依頼者に対してナーバスになる度合いはより一層強まるようになった。

そうすると、争点整理の局面でも、うかつに依頼者の意向と違うことを口走って後で問題となることは避けたい。一般的に、弁護士は前から飛んでくる弾はそれほど恐れないが、後ろから飛んでくる弾には強い恐怖を感じる性質がある。

そんな状況では、とてもではないが充実した議論どころではないのである。

 

揚げ足取りに終始する

第三に、揚げ足を取る弁護士が増えたということがある。

もちろん、昔からそのような輩はいたのかもしれないが、気になるほどではなかったと思う。特に、代理人の態度としていかがなものかと考えるのは、交渉段階で出た話を、訴訟において揚げ足取りのために主張するようなことである (例:「金を払うといって一旦は和解の提案をしてきたんだから責任を認めたということだ!」)。

勝たないと死ぬ病でも蔓延しているのだろうか。実は、そのような主張を行う弁護士は大変増えているため、率直に申し上げて我々も困惑している。

争点整理の局面でも同じことで、そういう揚げ足取りに終始する弁護士が増えてきたと思えば、警戒を緩めるわけにはいかない。だから、自由闊達な議論なんかできるわけがないのである。まさに、謝ったら死ぬ病である。

こうして、議論の筋道を引き戻すのが難しくなると、審理が迷走するのであろう7。そうなるとすれば、その責任は概ね弁護士の側にある。

 

最強の弁論術

かくして、日々、全国津々浦々の法廷を駆け巡る法廷弁護士たちは、ただ一つの最強の弁論術を編み出すに至る。

すなわち、

次回期日に主張します!

というアレである。

いつもヌケヌケとそのような対応をしやがってこの○○8な代理人が、と思われることもあるかもしれない。

しかし、これは、依頼者、相手方、裁判所9といった、訴訟を巡る様々な主体との関係性を熟慮した末に止むなく発する一言なのである。

もちろん、単純に調査不足の場合があることは、否定しない。それではまったくダメなので、準備はちゃんとしよう。

 

民事訴訟の今後

こんな議論をしているようでは、さすがに身も蓋もないので、これからの民事訴訟の展望を論じることにしたい。

武藤判事の論文は、次のように結んでいる10

もとより、民事訴訟の改善は、裁判所のみでできることではなく、弁護士や弁護士会の協力も不可欠である。これからの10年を「民事訴訟充実の10年」にしていくため、我々実務家には、一致協力して、現行民訴法の理念に立ち返り、利用者のための民事訴訟を実現していくことが求められているといえよう。

ぐうの音も出ないとはまさにこういうことであり、まったくそのとおりである。

裁判所も努力しているところであるから、メインユーザーである弁護士も、様々な努力をしていかなければならないのであろう。

 

弁護士の苦悩

それでは、今の時代を生きる弁護士としては、いかなる努力ができるだろうか。

第一義には、目の前の事件に真摯に取り組めということではある。

しかし、弁護士の生存環境が厳しくなればなるほど、丹念に依頼者から事情を聞き取り、事実関係や法的問題を調査し、隙のない書面を書き上げ、尋問のための入念な準備をするといった、非定型的で多大な時間と手間が掛かる訴訟事件の処理に経営資源を振り向けることは、益々困難になる。

その行き着く先は、「難しい依頼者は受けない」「少額の事件は受けない」「勝てない事件は受けない」「複雑な事件は受けない」「回収困難な事件は受けない」ということになるだろうし、それに止まらず「訴訟は控える」「訴訟外業務に注力する」ということもあり得よう。

果たして、そのような傾向が著しくなった場合に、司法は役割を維持することができるのであろうか。

司法の役割について「裁判所を中心とする法原理のフォーラム」11とする捉え方がある。しかし、いくら裁判所が民事訴訟の充実のために努力をしても、弁護士が持ち込む事件の傾向が限られるとか、弁護士の訴訟活動の質がアレだということでは、フォーラムの土台はぐらついてしまうだろう。

本来は、弁護士も法廷における職人として訴訟技術を磨くべきであり、そのための研鑚が活発に行われることが望ましい。しかし、残念ながら、現在の弁護士業界で主要な関心が向いている点は、そこではない。どちらかというと、技術性とか専門性はそっちのけでどう売り込むかみたいな話の方が多くなってしまった。一連の改革がもたらした悲劇である。

 

まとめ

以上、民事訴訟の改善に向けては裁判所も様々な取り組みをしているところであり、そのような活動に対しては敬意を表したい。一方で、民事訴訟を積極的に活用したいと願いつつ、実際なかなか使い切れていない場面もある弁護士の立場としては、いささか苦悩もある。

とはいえ、裁判所を中心とする法原理のフォーラムは、究極的には個人の権利及び自由を維持する上で必要不可欠な存在であるから、それがより一層質的に豊かで充実したものとなることを一法曹として心から願っている。

さて、そろそろ起案にとりかかろう。

 

 


  1. 武藤貴明「裁判官からみた審理の充実と促進」論究ジュリスト24号14頁以下(2018年) 

  2. 前掲17頁 

  3. 民事訴訟手続においても、既にテレビ会議システムを利用する等の取り組みは一部でなされているが、やっと書面の電子化の動きも具体化してきたというような報道も聞こえてきている。そのような動向の行き着く先は、おそらく司法の一極集中化ではないかという懸念も感じているところではあるが、今後の動向を注視したいと考えている。 

  4. 余談となるが、司法修習生は、当事者本人が同席するか否かで弁護士の振る舞いに変化があるか観察すると良い。当事者本人の前でハッスルする弁護士は少なくないし、度を超していることもある。当職は、そのようなスタイルは好きではない。裁判所は、法原理に基づいて問題を解決する場所であるから、そこでの議論は理性的であるべきではないかと思う(もちろん、そのような姿勢であるから依頼者の受けが悪いと自覚している。)。 

  5. 我妻栄『債権各論 中巻二』652頁(岩波書店、1962年)から以下引用。「委任は、他人の労務を利用する契約の一種であって、一定の事務を処理するための統一的な労務を目的とすることを特色とする。統一的な事務を処理するためには、多かれ少なかれ、自分の意思と能力によって裁量する余地を必要とし、従って、その労務は、いわゆる知能的な高級労務であることを常とする。見方を変えれば、委任は、他人の特殊な経験・知識・才能などを利用する制度なのである。」 

  6. 無論、懲戒手続の適正な発動は必要である。しかし、テレビで不当な懲戒請求を扇動して濫用的な懲戒請求が多数生じるようになったきっかけを作った人に関しては、二度と弁護士の肩書きを用いて活動すべきではないという程度には考えている。 

  7. もちろん、優れた裁判官は、そうなる前に箸にも棒にも掛からない主張はきっちりシャットアウトしている。 

  8. 適当と思われる二文字を各自補充されたい。 

  9. 大坪和敏「弁護士からみた審理の充実と促進」論究ジュリスト24号25頁(2018年)より以下引用。「自由な発言が出来ないのは、和解に関し、和解を希望する事件であっても、裁判官に不利な印象を与えることを懸念して当事者から裁判所に和解の希望を申し入れることを躊躇する傾向があるのと同様に、弁論準備手続における自由な発言で、裁判所に不利な心証を取られるのではないかという懸念があるためと考えられる。」 

  10. 武藤・前掲19頁 

  11. 第154回国会参議院憲法調査会における佐藤幸治参考人の基調発言より。 

働き方を考える(3)なぜ働くのか

働く歓びとは何であろうか

 

経営者と労働者の規律は異なる。

だからこそ、経営者は、自らが「365日24時間死ぬまで働け」との心意気で仕事に取り組んでいたとしても、同じことを従業員に求めてはいけない。それをやると、本当に従業員が死ぬことがある。

だが、そのことを理解しない経営者はいまだに少なくない。

当事務所には従業員もいるので、我々が従業員の働き方についてどのように考えているか触れておきたい。

 

労働条件について

当事務所の基本的な労働条件の例を挙げると、勤務時間1日7時間の週休2日制である。有給休暇に関しても計画的付与の協定を結んで消化に努めている(それでも余ってしまうため申し訳なく思っている)。

働いている人の待遇が悪すぎると様々なリスクを招く。例えば、レピュテーション的にも宜しくない。裏返していえば、労働条件を整えることは、経営を安定的に維持するためにも重要な意味がある。

なお、悪辣な経営者が率いる企業の商品なんかイヤだ1、と思う人も決して少なくない。最近は炎上という現象もある。そういった点に益々敏感にならざるを得ないのは、どんな企業にも共通する課題である。

 

タイムカードは正確に

当事務所ではタイムカードで勤務時間を記録している。

ところが、従業員を採用した当初には、タイムカードが正確に押されていないことがあったり、時間が書き加えられていたりしたことがあった。

しかも、どういうわけか従業員に不利になっている。一般的には、そのような慣行でもあるのだろうか。

それで、タイムカードの扱いに関して「押したらすぐに帰ること」とか「絶対に手を加えてはならない」と指示していた。杓子定規過ぎて従業員は戸惑ったかもしれないが、そのような点は良く励行してもらっている。

 

早く来てはいけない

従業員は真面目であるから、始業時間より早く来て掃除とかやっていたりする。早く出勤すれば普通は偉いと評価されるのだろうが、当事務所ではそうではない。

むしろ、「30分前に来るとか飛んでもないから定められた時間に出勤してください。」と苦言を呈したことがある。

これでは杓子定規過ぎて、むしろ従業員の意欲を損なうのかもしれない。

しかし、人生は仕事だけではないのであるから、仕事は決まった時間内になすべきである。従業員が早く来たとか遅く帰るというようなことで、その信頼性や忠誠度を測るとかいう封建的な悪習は早く消え去った方が良いと心から願っている。

新入社員に対して始業30分前に出社することを説いて話題になった秀麗な経営者2もいたが、これは間違っている。最初に述べたように、経営者と労働者の規律は異なる。だから、経営者の側から進んでそういうことを言うのは良くない。

 

人は何故働くのか

そういった諸々の考え方は、世間的には受けが良くないと感じることがある。

例えば、労基法の建前なんかクソ真面目に守っていたら会社がつぶれる、というのが代表的な批判である。

本当にそうだろうか?

確かに、法令遵守のためにコストが増えれば、株主や経営者の取り分は少なくなる。だが、それですぐに企業がつぶれるわけではない。むしろ、最近は、法令違反によって生じるリスクの方が無視できないほど大きく、企業に致命傷を与えることがある。

そもそも、従業員が雇用契約上の義務を超えて、企業のために尽くさなきゃならない理由なんてものは本来的にはない。だから、働いている人には限られた時間内に集中して仕事をしてもらい、その余は自由に過ごしてもらうのが良い。

なお、企業のために仕事をするべき立場である経営者は、成果を得る努力や工夫を惜しんではいけない。ただ、経営者も人間である。文字どおり365日24時間働けば死んでしまうのだから、何をどこまでやるのかは自律的に判断すべきである。

 

まとめ

昨今、従業員の幸福を追求するといった経営理念を掲げる企業は少なくない。とても善いことだと思う。

では、幸福とは何か。一言でいえば、幸福とは自己実現のことである。そして、どのように働くかということは、自己実現の要素の一部に過ぎない。すなわち、従業員の幸福を追求するということは、従業員を必要以上に仕事に縛り付けない、という意味を含んでいる。

繰り返し述べるが、人生は仕事のみではない。

我々自身は、極めて小さな経営を実践しているに過ぎない。とはいえ、働くことのあり方はより多様であって良いという発想が広く受容される社会となるよう、今後も努めることにしたい。

(おわり)

 

 


  1. 労働問題に関するものではないが、経営者の言動が不買運動に発展した代表的な例として、東北熊襲発言がある。そもそも東北地方は熊襲ではないので、この発言はあらゆる意味で間違っている。 

  2. この人は、司法試験にも受かっていて法律を知っている人なのであるから、新入社員に働き方の心構えを説く趣旨なのであれば、別の表現の仕方をすべきであったと思う。 

働き方を考える(2)どう働くのか

当地の光景

 

当地に赴任した人の話を聞くと、転勤についていささかネガティブな反応が出ることがある。

イソ弁以来の職業生活を好んで当地で営んでいる私には、その感覚は良く分からない。ただ、望まぬ転勤は辛いのだと思う。

余談ながら、イソ弁は給料の3倍稼げといわれたりすることがある。それは結構大変である。ただ、私の場合、稼いだ分を全部もらえる破格の待遇だった。昔はそのくらい弁護士が足りなかったのである。

 

職住一致

さて、私は、結婚に伴い独立することになり、その後に子供が2人生まれた。

夫婦それぞれで仕事は続けていたので、子供を保育園に預けていても、熱を出したとか怪我をしたとかイレギュラーなことが発生すると、仕事との兼ね合いで対処が厳しくなる。自宅と職場と保育所と移動するのも時間がかかる。子供が小学校に通うようになれば、放課後どう過ごすかという問題もある。

そのような問題をまとめて解決するため、保育園と小学校のいずれにも近い場所に自宅兼事務所を建てた。いわばライフハックである。

 

通勤がない

通勤時間は0分になった。

それまでも片道10分程度だったが、1日あたり夫婦で往復延べ40分節約できる。タイムチャージを1時間2万円、年間通勤日数を240日とすれば、単純に考えて経済効果は320万円/年である。

もちろん、その分仕事がなければ机上の空論に過ぎない。だが、こう計算してみて、通勤に費やす時間の価値を理解した。

通勤という観点だけで見ると、首都圏は壮大な社会的損失を生み出している。経済全体ではそれを超えるメリットもあるかもしれないが、何より実際に通勤する人が壊れる。

 

子連れ出勤

最近、子供を職場に連れて来て良いかという議論が沸騰している。

うちの場合、以前も子供を連れて出勤していたことはあった。今では、連れて来る以前の問題で、家にいる。

子供の相手をする必要があると仕事に影響しないのか、という問題はある。確かに、仕事の手が止まることもあるし、二人同時に出張できないといった業務面での制約が生ずることもある。とはいえ、そこは長い目で見て考えるということではある。

家庭の事情が業務に影響する場合があるのは、誰であろうとも仕方がない。家庭の事情に関わりなくパフォーマンスを常に発揮すべきだ、という考え方もあるのかもしれないが、率直にいえば人間離れしている。

なお、うちの弁護士会では、各種の業務や行事に子供を連れて行っても文句を言う人はいない。そのような雰囲気が醸成されたのは、ある先輩弁護士のご夫婦が子供を普通に連れてきていたあたりからだと思うので、もう10年以上前からのことである。

 

デメリットなどについて

もちろん、職場と住居が一致することのデメリットはある。弁護士の場合はセキュリティの問題が深刻な場合もありうるから、一概に良いとはいえない(実際、今の時代では、このようなスタイルは主流ではない。)。

また、顧客層によっては、現代的なビルディングに立派な事務所を構えた方が受けが良い、といった事情はあるかもしれない。

とはいえ、そのような事情があるとしても、そこは何を優先するかという問題である。素っ気ない建物であっても、自前の物件である。たまに、良い壁紙使ってますねとおっしゃってくれるような方もいるので、見る人が見れば分かるのだと思う。

(つづく)

 

 

働き方を考える(1)どこで働くのか

かつての通学経路(中目黒駅)

 

このところ、働き方改革というスローガンが良く聞こえてくるようになってきた。

実は、あえて改革なんていわなくても、働く人を大事にしようとしていれば自ずと効果があるような気がしているが、いかに働くべきかということは昔から関心を持っていたテーマである。

そういうわけで、思うところを書いてみることにした。

これまで、働き方について考える契機となった出来事はいくつもあるが、中には独特な見方もあるかもしれない。少々、詳しく述べることにしたい。

 

過酷な首都圏の交通事情

私は埼玉のとある田舎町で育った。池袋から東武東上線に1時間くらい乗って、そこからさらに何キロか先の山の中みたいな所に住んでいた。

高校から都内の学校に通うことになった。昔は副都心線の直通運転もなかったから、自転車乗って、東上線乗って、山手線乗って、東横線乗って、さらに歩いて、6時に家を出て8時半の始業のちょっと前に滑り込むように通学していた。

何しろ、ラッシュ時の東上線の急行列車なんかに乗ると、遠くまで行き帰りしなきゃならないからなのか、みんな目が死んでいるように見えた。

高校を卒業するまで何とか持ちこたえたが、東京を中心にする生活をするのはもう一生御免だなあ、と思ったのだった。もちろん、しっかり稼いで便利な場所に住めればそんな悩みも無縁だろうが、そんなに容易ではない。

 

ボウガン襲撃事件の衝撃

そんな次第で上洛して羽を伸ばしていた90年代の末、司法試験に受からないのを逆恨みしたベテラン受験生が、法務官僚の自宅にボウガンを打ち込むという衝撃的な事件が起きた。

この事件、何に驚いたかといえば、事件現場が埼玉県の川越市だったことである。

法務検察の大幹部でも、川越あたりの自宅から霞ヶ関まで通っているとなったら結構な通勤時間を食われるじゃないか、ということに驚いたのだ。

首都圏の住宅事情では、役所の大幹部ですら通勤しやすい場所に住めるわけでもないんだなあ、と思ったのだった(但し単なる誤解かもしれない)。

 

進路選択への影響

さて、そういうわけで、首都圏の生活環境は最悪であると感じていたし、それを個人の能力で克服するのは極めて困難だと考えていた。

それで、私にとって、どこでどう働くかというのは働く前から結構重要な問題だった。なお、ある先輩からは「お前は寝ないとダメだから渉外(事務所)に行ったら死ぬ」と面と向かって言われたことがあった。そういったことも含めて、働き方というものを考えた方が良いのかもしれない、とは思っていた。

(つづく)

 

 

ブックレビュー:『変貌する法科大学院と弁護士過剰社会』

 

はじめに

法科大学院、法テラス、裁判員裁判・・・司法制度改革に対してどのような評価をするかは、なお議論がある。

ただ、全く問題なくうまく行っていっていると言い切れる人はいないと思う。万が一にもそのような人がいるとすれば、清々しいほど超然的である。

本書には、司法制度改革のうちでも、特に、法科大学院と法曹人口の問題についての論考がまとめられている。

 

ドグマチックな法科大学院

まず、本書では、法科大学院の制度設計について論じている。そこで目を引くのが、法科大学院には現実を無視した数々のドグマが存在していた、という指摘である。

ざっと読んでみても、司法試験敵視ドグマ、起案敵視ドグマ、双方向ドグマ、幅広い知識と教養のドグマ、理論と実務の架橋ドグマ・・・等の指摘がある。嗚呼、もう、これだけでも何か大変なことになってるなあという想像がつきそうである。

さすがに、成果が上がってないのでマズいということが認識されてきたのか、現在は修正が図られつつあるということも本書では述べられている。

しかし、一体今まで何をやっていたのだろうか。

法律学の修得はなかなか難しいと思うのだが、適した方法は色々とあり得る(より端的にいえば予備校をバカにできない)。だから、そのような方法に何としても拘らなければならない、ということではなかったんじゃないかと思うのである。

 

法曹人口問題のこと

法曹人口が増えたことで法曹の質が低下している、という話については良く耳にするが、本書でもいくつか具体的なエピソードが紹介されている。

質が低下しているかどうかということについてはなかなか断言しづらい。当職自身も、人のことが言えるほど高品質かどうかといえば、あやしい。

ただ、事件が解決しづらくなっている、というような雰囲気は感じることがある。その一因として、本書でも指摘のあるとおり、依頼者への従属的傾向が強くなっているということはあるかもしれない。それ以外にも、問題事例を見かける機会は、少なくなくなってきたように思う。

さすがに、法曹三者のいずれを問わず、法律家が法律判断を間違えるような事案が頻発するといった事態にはならないでほしい、と祈るような思いでいる。

 

本書の結論に対する意見

本書の結論は、「法科大学院の入学総定員数は司法試験の合格者数から逆算し、法科大学院に入学すればよほどのことがないかぎり司法試験にも合格できるようにする」(282頁)というものである。

また、そのための抜本的改革ができなければ、「司法試験の受験資格要件から法科大学院の修了を外すことを検討するしか方法はない」(285頁)とする。

この考え方に対しては、概ね同意するところである。

概ね、というのは、抜本的改革は困難に見えるからである。例えば、ここに来て、法学部+法科大学院での5年一貫コースを設けるといった苦し紛れの構想が繰り出されたが、なお制度が迷走していることを象徴しているようである。

本当に法科大学院に魅力があれば、司法試験の受験資格要件に関わりなく存立できるはずである。いや、そうでなければならないのである。一部の法科大学院は先導的法科大学院(LL7)と称しているが、それも生き残りをかけての活動の一環ということなのであろう(個人的には、京大が徒党を組まされているのが大変気に入らない。)。

結局、法学部では学び足りなかった人や非法学部出身者のために、法科大学院はあっても良いと思う。一方で、司法試験は自由に受けられるようにしてその時点での能力に応じて選抜する、ということで良いのではないか。当職はそのような意見を持っている。

 

 

ブックレビュー:『依頼者見舞金ー国際的未来志向的視野で考える』

 

はじめに

今年3月の総本山での臨時総会で、依頼者見舞金制度の導入が決議された。

個人的にはこの制度の導入に反対していたので、まずは以前の記事を紹介しておきたい(「依頼者見舞金の展望:アメリカの状況を踏まえて」)。

臨時総会での決議がなされた翌月に出版されたのがこの本である。内容としては、2014年に開催された法曹倫理国際シンポジウムの記録であるが、依頼者見舞金制度導入のタイミングを踏まえて慌ただしく出版された印象を受ける。

 

感想

本書のハイライトは、須網教授と弁護士のディスカッションが噛み合っていない場面である(59頁以下)。

須網教授は、隣接士業と重なる弁護士業務が行政の監督を受けないのはおかしいとか、問題会員への弁護士会の指導・監督が足りないといった趣旨の指摘をされる。司会者は「いろいろプロボカティブな質問」と取り繕ってはいるが、いささかトンチンカンな問題提起である。

それで、弁護士側から説明がなされると、「私は、ちょっと実務があまりよく分からないので」だとか「ちょっともしかすると、趣旨が伝わらなかったかもしれないのですけど」などと始まる。本当に大丈夫かという感じである。

石田准教授の論考への意見は以前にも書いた。最近も寄稿を見掛けたが1、アメリカと同様の制度を導入することの単純明快な説明に終始している。

今も横領被害は起きる中、国際的やら未来志向だとか悦に入っている場合ではない。一体何のシンポをやっていたのだろう。

 

法曹倫理の課題

ところで、ちょっと実務があまり分からないなんて仰っている須網先生、別の所では給費制復活運動を目の敵にして弁護士会を罵倒している2。大変正直な人なのだと思う。

こうなってくると、理論と実務の架橋どころではない。相互不信の根深さは、法曹養成制度に暗い影を落としている。

つまらないからなのか学生には評判が悪い科目であるようにも聞こえてくるが、法曹倫理を教えないならロースクールはなくてもよい。法曹倫理の理解は道を踏み外さないために不可欠なだけに、机上でもしっかり身に付けて実務に出ていく人が増えることを祈っている。

 

 


  1. 石田京子・加戸茂樹「依頼者見舞金制度と米国の依頼者保護基金制度の比較」自由と正義68巻9号22頁以下(2017年) 

  2. 須網隆夫「司法修習生への給費制復活」法律時報89巻4号3頁(2017年)には、「弁護士会は、給費制復活のために、弁護士の経済的利害を追求する圧力団体として徹底的に行動した。このことは、日本の弁護士の歴史に汚点を刻むものである。」とある。謎理論である。 

ブックレビュー:『破天荒弁護士クボリ伝』

 

久保利先生の本、特に買おうと思って本屋に行ったわけではないが、噂に違わず表紙が派手過ぎて思わず購入してしまった。

今の時代、弁護士として生き残るにはこのくらい押し出しが強くなければダメだ、ということを後進たちに対して体を張って示しておられる。

お話は相変わらずとても面白い。要するに数々の武勇伝が語られている。巻き込まれる危険をきっちり回避しながらも、かつての武富士や商工ファンドとかからも仕事を受けているのが印象的であった。

日弁連の会長選挙に立候補した関係で、久保利先生は釧路にも来てお話をされたことが記憶にある。会長選挙のことも触れているが、破天荒過ぎて多数に支持されるというのではなかったのだろう。また、司法制度改革の点についてはアレなので、特に申し上げることはない。

フツーの弁護士がこのような生き方をマネすれば、塀の中に落ちるか、命を落とすことになるだろう。久保利先生は頭も良いし、一生懸命努力もされているからこそ、このような生き方ができるのだと思う。法曹の生き方というものは真に多様である。