城跡と裁判所(19)那覇地方裁判所名護支部

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沖縄本島には那覇地方裁判所本庁のほか、沖縄市と名護市に地裁支部があります。ここ名護支部は沖縄本島の北側と離島を管轄する裁判所です。

その管轄地域の面積では本島の3分の2程度を占めていますが、管轄人口は12万人強で本島全体の10分の1くらいですから、都会化著しい那覇周辺と比べると過疎の進んでいる地域のように見えます。

 

さて、名護市内にも城跡はありますが、範囲を拡げて管轄区域内の城跡について触れたいと思います。もはや城跡と裁判所の関連性は全くないので、単に見に行ったというだけでしかありませんが。

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本部半島の北側、今帰仁村(なきじんそん)の山中に今帰仁城跡があります。

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今帰仁城は15世紀に琉球統一がなされるまで北山の中心として栄えていましたが、その後17世紀に薩摩の侵攻を受けて城自体は廃れてしまったようです。しかし、今も巨大な城郭は残存しており、眼下に海が広がる壮大な光景を眺めることができます。

 

うちから2000キロ以上も離れた場所で同じ法制度が通用していることは、それほど当たり前には思われません。

さすがに、名護の裁判所に用があったことはないですが、法務局に何か用があって郵送で手続をした記憶はあります。その時に、同一の法制度が遠くの地で通用していることの有り難みを感じたものです。

そうしてみると、国が統合されて同じ法制度が通用する地域が広いほど人の活動を容易にはしてくれます。ただ、この名護支部の管轄している本島北部地域は、振興策は色々と打ち出される一方で、基地の問題が色濃く陰を落としており、くまなく見て回っていると、特に昨今はその統合が揺らいではいないのだろうか、という懸念を感じます。

以上、見どころも少なくない沖縄本島北部に足を運ぶこともあるのですが、行く度に思うことは尽きないところです。

 

 

城跡と裁判所(18)那覇地方裁判所・福岡高等裁判所那覇支部

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沖縄県の中心都市である那覇市は人口32万を超え、人口規模で例えれば埼玉県の越谷市と概ね同じくらいということになります(比較の必然性は全くありませんが、昔、越谷在住の高校の国語科の先生がそのような例えをしていたというだけです。)。

那覇市には那覇地方裁判所本庁及び福岡高等裁判所那覇支部が置かれています。

ところで、この裁判所が日本国憲法の下で司法権を行使する機能を果たすようになったのは、1972年5月15日に本土復帰して以降のことです。

つまり、本土に比べて四半世紀ほど日が浅いというわけで、そのような意味では特殊な成り立ちを持つ裁判所です。

 

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さて、裁判所のある一角からは離れて、かつての琉球王府であった首里城跡があります。

昔の城跡は沖縄戦で破壊し尽くされてしまいましたから、現在あるのは復元によるものです。しかし、城跡に行ってみれば、建物も石垣も本土にある城とは全く違う様子であることは一見して分かります。

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沖縄は本土とは大きく異なる歴史的・文化的な背景を持つ地域ですが、様々な軋轢を経ながら現在の日本国としての国家的な統合が果たされてきました。

ただ、沖縄からの視点で日本あるいは世界の歴史を眺めてみた場合には、そのような統合がなされている状態はそんなに当たり前のことなのであろうか、とも思えてきます。

果たして、日本国憲法の掲げる様々な理念はこの地で血肉化しているのかどうかと問い直してみると、なお多くの課題に突き当たりますし、それだけに、この地における司法の役割は他にも増して重いように感じられてなりません。

 

 

行政活動とのかかわり(2)児童相談所

児童相談所に弁護士を配置する方針を厚生労働省が固めたということのようで、先日の日弁連の臨時総会で最後に挨拶した会長がそのようなアピールをしていました。

これに対して、私の後ろの方から何かヤジを飛ばした人がいたみたいなんですが、確かに、日弁連が手柄としてアピールするような話なのかという気がしないではありません。

さて、既に多くの地域で児童相談所の活動に弁護士が関与する仕組みは整えられてきており、実は当職も帯広の児童相談所からの委嘱を受けて、児童虐待対応プロジェクトチームの専門委員を長らくやっています。

ただ、どのような形で弁護士が関与しているのかという点については、余り知られていないように感じることがしばしばありましたので、少しご紹介したいと思います。

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何をやっているのか

児童相談所で判断に悩む事案に関してはプロジェクト会議が開かれており、児童相談所の職員と医師(例えば、産婦人科医・小児科医・精神科医など)及び弁護士が協議して方針を決めています。これは、問題が発生すれば随時行われます。

問題となることが多いのは、児童相談所長の採る措置のうちでも、児童の一時保護を行うことや(児童福祉法33条)、保護者の意思に反して児童を施設に入所させること(同法28条1項1号、27条1項3号)です。

保護者の同意があれば良いのですが、合理的な理由もなく児童の一時保護や施設入所を拒絶されることはあります。その場合にも児童相談所の判断で子供を保護者から引き離せるかという問題があります。

親子関係を引き離すわけですからその性質としては重大な措置です。

ですから、児童相談所の職員は、これらの措置を取るに当たって慎重に気を遣っているように見えます。

その場合にゴーサインを出しても問題ないかどうか、ということを主に協議することになります。

医師の先生方は専ら医学的な観点から、弁護士は専ら法的な観点からの指摘を行います。特に、保護者側から不服申立がなされても耐えられるかといった点は事案に即して見ていく感じになります。冷静な判断は必要ですが、根拠があれば可能な限りの対応を促すこともあります。

また、児童相談所の調査能力は高いのですが、裁判所の判断の仕方については必ずしも慣れていないように見えることもあります。そのため、裁判所が関与する手続1に入った場合には、どのような主張をして、どのような証拠を集めたらよいか、という観点から助言を行うこともあります。こういった助言ができるのは、司法修習で裁判所の判断の仕方もきちんと見てきた(はずの)弁護士ならではのことだと思います。

 

感想

ということで、児童相談所の業務に弁護士が関わること自体は、非常に意味のあることです。今後、弁護士を常置させるということが実現すれば、児童相談所の職員が権限行使に当たって日々悩んでいる点について迅速な対応ができるようになるという意味も大きいでしょう。

ただ、弁護士の業務拡大という文脈でこれを語られることについては、率直なところ違和感を覚えております。目立って業務が拡大するというイメージでもないとは思います。

児童相談所の権限行使が適正になされるようにすることは、子供に関する問題についてより適正な扱いがなされるということでもありますから、意義のある仕事です。関係者の基本的人権への配慮を行いつつ行政活動の実効性を確保するという難しいバランスの舵取りについて、今後も弁護士が関わっていくことは大切であると思います。

 

 


  1. 例えば、家庭裁判所による承認(児童福祉法28条1項1号)がある。 

弁護士法人の実像・釧路編

平成28年4月1日現在、私の所属している釧路弁護士会は、78名の自然人会員の他、12の弁護士法人会員により構成されております。

さて、本稿はそのうち弁護士法人についての話題ということになるのですが1、弁護士法人は、従前法人形態による弁護士業務は認められていなかったところ、平成14年4月1日に施行された弁護士法の一部を改正する法律により認められた制度です。

この立法化には、当時日弁連副会長であった当会の会員が日弁連側の担当者として尽力したようにも聞いておりますので、この制度が先人の多大なる努力により設計されたことに思いを致し、まずは活用の途を探るべきであろうと考えているところです。

 

弁護士法人制度の趣旨

弁護士法人の制度趣旨としては、「法人組織によって法律事務を取り扱う途を開き、弁護士業務の共同化・分業化・専門化を促進し、高度に専門化した質の高い多様な法律サービスを安定的に供給することを可能とすることにより、複雑・多様化する国民の法的需要に的確に応え、その利便性の向上に役立たせようとする」ということだったようです2

ただ、司法制度改革の成否を握る鍵の一つとも位置づけられた3弁護士法人の制度でありますが、実際に使用される類型について単純に考えてみると、

  1. 人的側面に着目すると、一人法人型か共同型か
  2. 展開に着目すると、支店を展開するかしないか

といった視点から見ることができるように思います。

このうち、一人法人型は、弁護士の総数が1名の場合とイソ弁もいる場合とあり得ますし、また、共同型は複数の社員が存在する場合ですが、これも事業承継の色彩が強いものと、むしろ事業共同化の色彩が強いものとが見られるようです。

また、弁護士法人制度の最大のメリットは支店を出せることにありますが、支店を出す目的があるかないかの違いもあります。

以下、当会で見られる類型を中心に、弁護士法人制度の具体的な活用方法を見て行くことにしたいと思います。

 

一人法人型

弁護士法人の制度においては、一人法人は禁じられていません。そこで、弁護士1名の事務所が法人化してその弁護士が法人の唯一の社員となったり、社員数の変動を経て社員1名により存続しているといった類型の法人も複数存在しています。

一般的には、法人を設立することで社会保険加入の関係や経理の分別化などメリットはあるということにはなるのだと思われます。但し、法人でない場合に比べてコストが増加する要因にはなります。

現時点では、社員1名の弁護士法人として計6事務所が存在していますので、全体の弁護士法人数からは一人法人の比率は高めかもしれません。

 

共同型

ボスの高齢化に伴い従前のイソ弁等を社員化した上で法人化し事業承継に備えるという類型も、制度趣旨には即したものといえます。

もっとも、結果的に承継がされずに清算に至る場合もありますし、また、ボスが引退するにはまだ早い場合もあるでしょうから、具体的な法人の在り方は社員の人的構成の如何などにもよるところが大きいです。

当会において第1号の弁護士法人を設立したのは釧路のK会員なのですが、設立直後に「俺は給与生活者だ!」と仰っていたのを聞いて、これほどの御大が給与生活者とは何事かと驚いたことがあります。もちろんそれは経理的な観点の話で、個人事業主の場合とは異なり、社員に毎月一定額の役員報酬が支払われることになる一方、法人の交際費の損金算入には限度がある4、などの制度的な相違を指摘する趣旨だったようです。

その後K会員は逝去されましたが、法人は構成員の変動にかかわらず存続することにその特質があります。弁護士個人で事件の受任や顧問契約をしている場合、他の弁護士が仕事を引き継ぐ際には契約を結び直す必要が生じるなどの繁雑な事務が生じます。多分、K会員は先々を見越して法人化をいち早く進めたのだと思いますので、先を見通す力を持つことは大事なことだと思ったのでした。

 

また、ボス的弁護士が存在せずに複数弁護士が社員となって法人を設立する形態の弁護士法人もみられます。

従前であれば、このタイプの事務所は、いわゆる収入共同型や経費共同型としてのパートナーシップ(法律的に見れば民法上の組合)を組んで共同事務所を設立することが通常だったと思われます。当会においては、このような事務所は釧路と帯広にそれぞれありますが、帯広の事例は自分の事務所のことです。この点については後で詳しく論じます。

 

混合型

渉外事務所が地方に支店を展開するために、弁護士法人を設立して本体の法律事務所との共同事業にするという類型も見られますが、当会にこの形態で進出しようとする事務所は今のところないようです。

この問題に関しては「法人化せずに法律事務所の支店を出すスキーム」というブログ記事に詳しいところです。

 

地域内事務所による支店展開

道東の中標津町には裁判所がなく、隣町、といっても20キロメートルほど離れている標津町に簡易裁判所が所在しています。また、地裁は根室支部の管轄となり、こちらは約70キロメートル以上離れたところにあります。

ここには平成24年6月以降、釧路の弁護士法人が支店を開設し、社員1名が常駐しています。

中標津町には裁判所はありませんが、人口や産業の面では地域の中心的な町となっており、このような場所の法的ニーズをすくい上げようという姿勢は注目されます。

管轄区域が四国四県+長崎県程度あって極めて広汎な当会においては、支店の設置による営業規模の拡大は、地域におけるリーガルサービスの充実及び強化を図るための一つの在り方ともいえるでしょう。

 

地域外に主たる事務所を有する法人支店の進出

東京に主たる事務所を置く弁護士法人が全国展開を積極的に進めており、釧路にも支店を出しています。

私は当該法人から派遣された会員の入会時の保証人となったのですが5、当会規定の保証人は2名であったことから、規定に不足したことについて若干の議論はあったようです。もっとも、規定の推薦人がいないだけでは登録進達を拒絶することはできず、他の拒絶事由が無い限り登録は認めざるを得ないとの見解もあります6

他会では入会審査の遅延により損害を受けたとして、同法人が弁護士会を訴えるという事象も生じていると聞くのですが、当会では必要な審査の上で登録を認めるに至ったようで、平成25年1月以降、社員1名が釧路の支店にて執務しています。

 

この類型の支店展開としてはもう一つあり、札幌に主たる事務所を置いている法律事務所が平成25年3月より中標津町に支店を設置し社員1名を常駐させています(その後、1名弁護士が増員)。

先述のとおり、中標津町は裁判所がない自治体であるにも関わらず、現在3事務所(うち2事務所は支店)において、弁護士合計4名が常駐する体制となっており、珍しいケースであるようにも思われるところです。

 

自分の事務所

最後に、自分の事務所について触れておくことにします。平成19年5月に設立された当事務所は、帯広市では初の法人化事務所となりました。

しかし、当事務所においては,設立当初から支店展開も後継対策も想定しておらず、設立時の営業基盤は必ずしも十分ではなかったことから節税効果も見込んでいませんでした。専ら、家計と事務所経理を分離して管理したいという意図があって法人化を図ったように記憶しています。

なお、2名の岩田さんが合同して設立した法律事務所なのであるから、文字通りそれを反映した名称にしたらよいのではないかといった意見も聞こえてきましたが、ある名門事務所と誤認混同を招きそうですのでごく普通の事務所名となったのでした。

 

さて、法人化をした意外なメリットとしては、経営者である弁護士(社員)も社会保険に加入させられる結果、社員が出産手当金の対象となることでした。

通常の経営者弁護士は国民健康保険の加入となるため、女性が経営者となっている場合には自ら出産してもこの給付はありません。ちょうど、法人を立ち上げてからうちでは2回の出産があり、この制度により休業中の収入を確保する恩恵を受けましたから、このような活用の仕方は有り得るようです。

厚生年金の加入については一般的にはメリットといっても良いのでしょうが、将来、年金制度そのものが維持されるかどうかという問題はあるかもしれません…。この点は、法人化していない弁護士であっても、弁護士国民年金基金に加入するなどして、いわゆるひとつのハッピーリタイヤといわれるものを目指すことになるのでしょう。

一方、社会保険料が高いとか、弁護士会費が増える(法人分の会費が発生する)というデメリットは存在します。

節税のメリットがあるかどうかは、場合によります。売上の見込みを保守的に予想して役員報酬を決めると、予想外に売上が伸びた場合には法人税の負担が大きく生じますし、逆に、役員報酬を楽観的に決めると、売上が予想以上に下がった場合に法人のキャッシュが枯渇するという問題があり(もちろん社員は無限責任を負います)、微妙です。弁護士の仕事の売上予測は結構難しいように思います。

このようにして、当事務所は小規模ながら法人化を図って事業を支障なく続けるための体制を徐々に整えてきたところなのですが、「仏作って魂入れず」という言葉もありますから、あとは魂をいかに注ぎ込むか、ということが今後の課題のように感じています。

 

まとめ

以上見てきたとおり、弁護士法人制度の導入から十数年が経過して、様々な形態の弁護士法人が小規模単位会である当会にも存在するようになりました。

弁護士業界を取り巻く環境が激変している現在においては、法人制度の利用を通じてその点にいかに対応していくことができるか、ということが最大の課題であるように思います。

例えば、内部的には構成員の引退、死亡、あるいは独立や転職等による脱退ということもあるでしょうし、外部的には支店展開等による規模拡大などの対応の必要性も出て来るでしょうし、他には福利厚生の確保といった観点もあります。

そこで、法人化を図ることで何が出来るのか、あるいは出来ないのか,良く検討した上で経営上の選択肢の一つとして弁護士法人制度の活用方法を研究することが必要があると思われます。

法人化している我が事務所も永続的な発展ができるかなお未知数ですが、細く長くやっていけるように願いつつ業務を続けて行きたいと思います。

 

 


  1. 既に、東京弁護士会の会報・LIBRA2010年1月号に「弁護士法人の実像」という特集記事がある。 

  2. 黒川弘務・坂田吉郎『わかりやすい弁護士法人制度』9頁(有斐閣、2002) 

  3. 黒川・坂田前掲5頁 

  4. なお、その後の税制改正によりこの点は大きく緩和されているため、現状では800万円を超えて交際費を支出するということでもない限り相違が生じるものではないと思われる。 

  5. その事情の一端については、以前、「何をしているんですか石丸さん」という記事にて述べたとおりである。入会の保証人(紹介者)が必要な場合、同期であるとか、修習先や勤務先のボスであるとか、色々と伝手をたどって探すことが通例と思われる。 

  6. 高中正彦『弁護士法概説』第3版79頁(2006、三省堂) 

司法制度改革と「法の支配」

司法制度改革が進み出して以来、「社会の隅々まで法の支配を」というスローガンを良く聞くようになりました。

この言い回しは、現在に至るまで、各種の声明や宣言、あるいは個々の弁護士の意見の主張においてまで、様々なところで耳にします1

しかし、最近の私は、どうしたわけかこのスローガンを聞くと、どうもおかしな感じを持つようになってきてしまったところがあります。

なぜ、そのような思いを持つに至ったのか、そろそろ会務が繁雑になってきてブログを更新している暇もなくなっていくかもしれませんので、私のこれまでの来歴も踏まえてまとめて振り返ってみることにします。

 

「法の支配」へのアフェクション

だいぶ昔に遡り、私が京都大学の法学部の界隈に生息していたころには、佐藤幸治教授(当時)の「法学入門?」及び土井真一助教授(当時)の「外国書講読」を履修していました。

それはまだ1回生のころのことでしたから、6年7か月という妙な長さにわたる法学部生活2の中でも極めて例外的に、真面目に出席していたものです。

佐藤先生はアタッシュケースを持参して銀行員みたいな雰囲気で講義に現れ切々と語っていたことだとか、土井先生はシュッとしていて落ち着いた声で切れ味鋭い講義をしていたことだとか、いずれも印象に残っています。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。」という言葉を紹介していた土井先生は特に格好良かったなあ、などと思い出されます。

その影響なのか、あるいは周りの空気の影響なのかは、今となっては判然としないのですが3、「法の支配」という言葉の意味についても、全く疑いなく佐藤幸治説に沿った理解をしていたところではありました。

それは、「正しい内容の法」という濃厚な意味を「法の支配」の中に見出す立場ということになるでしょうか。

 

司法制度改革審議会の意見書

そこで、司法制度改革審議会が平成13年にまとめた意見書で「法の精神、法の支配がこの国の血肉と化し、『この国のかたち』となるために、一体何をなさなければならないのか」なんていっておるなら、そりゃあ、我が国のあらゆる場所において「正しい内容の法」による統治が行われる世の中を作るんだって目標を掲げているってことだよな、こりゃあスゴいことだぜ、と思い込んでもしょうがないというものです。

少なくとも、そのころの日弁連の執行部がそう理解していたということは、当時の会長声明に現れた「社会の隅々まで法の支配を」という一節から明白です。

もっとも、私も弁護士になる前にそんな意見書も会長声明も読んでませんが、ただ、平成10年代前半というのは、そういった空気を有形無形に感じる時代であったことは間違いありませんでした。

俺なんか東京や札幌みたいな都会に居なくても他の人が頑張るだろうし4、ならば、自ら日本の端っこの弁護士会にこの身を投じてみるのも善きことなんであろう、とか思ったりもしたものです(そうはいっても、帯広は過疎地でもなければそれほど端っこでもない。)。

しかし、司法制度改革の行く末は、今更言うまでもありませんが惨憺たるものとなってしまいました。論者によって見方は異なるとは思いますが、全く問題は生じていないのだ、という主張ができる人はそうはいないはずです。

 

「法の支配」とは何か

どうも、「法の支配」という言葉の論争性5には、何か呪いでもあるんじゃないかという気がしてきました。

「法の支配」の意味など疑いもせず長らく暮らしてきたのですが(これこそ受験勉強に専念して視野が狭くなってしまった弊害ですね!)、昨今は、憲法秩序が怪しくなるような諸々の問題が出てきて、さすがに基本となる考え方を真面目に勉強し直さなければならない状況になってしまいました。そんなことをしていても稼ぎには全くといっていいほどつながらないので誠に困ったものです6

そうしたところ、こんな意見に出くわしました。

ことばの使い方はもちろん人によってさまざまでありうるが、法の支配を「正しい内容の法」の支配と同視し、望ましい法秩序のあり方をすべて含むかのように濃密に定義してしまえば、この概念を独立して検討の対象とする意義は失われる7

この論文のタイトルもずばり「法の支配が意味しないこと」なのですが、今までの理解とまったく違うじゃないか、との感を持った次第です。

更に過激な批判も存在しているようです。

法の支配は、実定法の物神化によって体制的権力を批判免疫化する機能をもつか、さもなくば法的議論をイデオロギー闘争の代用品に転化する機能をもつ。いずれの場合も、法の支配は、政治闘争のアクターが「政治的に中立な法的論議」の仮構に自己の党派性を隠蔽して正統性を欺瞞的に調達することを可能とする装置である8

要するに、これは、法の支配を装って批判を寄せ付けないとか議論を封殺することだってあるじゃねえか、というように読めます9

「法の支配」概念は、元々はコモン・ローの国(英国・米国)で発展した考え方ですが、コモン・ローを承継した法体系を有する国の中には、政治的反対者を裁判を使って弾圧するような国も存在しています(米国ですら怪しいといえば怪しい)。

法に従え、そして裁判所を尊重しろ、それが「法の支配」だ、といってしまうのであれば、法が正しくないとき、あるいは裁判所が正しくないとき、人々はどうすれば良いのでしょう。

 

スローガンとしての「法の支配」

さて、「社会の隅々まで法の支配を」といったスローガンが掲げられるような場合に、ここでの「法の支配」とはいかなる意味を有するものなんでしょうか。

仮に、それが長谷部教授の理解のように「法が備えるべき特質」という程度の希薄な意味10であるとすれば、何を言っているのか全く分かりません。ですから、かような意味で使われている訳ではないようです。

それに、このスローガンが「正しい内容の法」を前提としないのであれば、形式的法治主義と何が違うのかという疑問があります。それなら最初から「(形式的)法治主義を貫徹する!」と言っとけば足りるのですから、あえて「法の支配」という概念を持ち出す必要はありません。

そこで、ここでの「法の支配」とは、「正しい内容の法」を前提とした意味、と理解するほかありません。まあ、佐藤教授は司法制度改革審議会の意見書の起草に関与しているはずですから、色々考えたところでそういう解釈に辿り着くのは至極当然なことです。

ところが、そう考えると、「正しい内容の法を社会の隅々まで行き渡らせる」という構想は余りに気宇壮大なために、そのような社会の構築への道筋を慎重かつ綿密に策定しなければ、その実現は到底無理なんじゃないか、という疑問に突き当たります。

すなわち、それは「ロースクール作って合格者3000人、とりあえずやってみろ!」で、そのような社会を現実に構築することができるのかという疑問です11

 

「法の支配」を実現する条件

もちろん、実現できる道があるならば一生懸命取り組むべきでしょうから、構想を具体化するための条件が何かということを考えてみなければなりません。

まず、何よりも「正しい内容の法」を理解した適切な人材を養成する必要があります。

「正しい内容の法」というくらいですからその理解にまで到達するには厳しい修行が必要でしょう。そのための覚悟と素質がある人材を確保できているでしょうか?法科大学院では着実な養成ができているのでしょうか?司法試験では志願者の能力は十分に試されているのでしょうか?司法修習では修習生に不足なく経験を積ませることができているでしょうか?

次に、「正しい内容の法」を理解した人材を、適切な場所に配置する必要があります。

裁判所に十分な裁判官が配置されているでしょうか?検察庁に十分な検察官が配置されているでしょうか?あるいは弁護士会はどうでしょうか、弁護士が本来いるべき場所にいなかったり、いるべきではない場所にいることはないでしょうか?

更に、人材を配置するだけでは足りず、「正しい内容の法」を実現するための適切な活動を保障しなければなりません。

1円を得るために100円掛けるといった場合にまでコストを国民が負担する覚悟はできているでしょうか?国民のそのような権利意識を醸成するための活動は十分に行われていたでしょうか?裁判官は出世や地位にとらわれず判断ができているでしょうか?検察官は不偏不党に活動できているでしょうか?弁護士はどうでしょう、金回りの良いクライアントの言いなりにならないでしょうか?あるいは属する組織の意向に逆らえないことにはならないでしょうか?そして、いずれの職にも共通しますが信念を貫いた場合に職を辞する自由は確保されているでしょうか?

もう一度、問い直してみなくてもよいのでしょうか。

濃厚な意味における「法の支配」は、安易な構想による実現を許しません。そのためには、様々な条件が必要となることでしょう。

果たして、司法制度改革はその容易ならざる前途を意識して着手していたのかどうか、余りに楽観し過ぎてはいなかったのか、私は疑問に思います。

 

「法の支配」の成れの果て

そして、司法制度改革が進んでも、濃厚な意味での「法の支配」が容易に実現できないことが分かってくると、どうもおかしな話があちこちから聞こえてくるようになってしまいました。

例えば、依然、昨今においてもスローガンとして持ち出されてくる「法の支配」という言葉も、もはや「正しい内容の法」を前提とする意味ではなく、形式的法治主義みたいな意味でやけくそ的に誤用されているようにしか聞こえてこないことがあるのです。

もちろん、そんなものはお前さんの思いこみだの空耳だとかといわれてしまえば仕方がないのですが。

かような次第で、最近、「法の支配」、とりわけ「社会の隅々まで法の支配を」などという言葉が各種の宣言や声明に入っていたり、人の意見に混ざっているのを聞くと、違和感を禁じ得ず、あるいは、それを通り越していささか嫌悪感すら覚えてしまうようになってしまったのでありました。

誠に悲しいことです。

 

最後に

もう、「法の支配」をスローガンとすることはやめにしませんか?

本来であれば、司法制度の改善はもっと地道な目標を掲げて取り組むことを考えなければならなかったのではないか、と思います。

私は、佐藤教授の「憲法」(青林書院)を読んで学び、その博識溢れる理知的な解釈論には感服するところも多々ありましたから、佐藤教授の学問的業績には大いに尊敬の念を抱いています。しかし、司法制度改革の結果いかなる事態が司法の分野にもたらされたかということを思うにつけても、その卓越した学問的業績とは別に、どうしたって残念な思いに囚われます12

もちろん、法の支配をいかに現代の社会に生かしていくべきか、という視座を持つことは大切なことです。

ただ、法曹が真に掲げるべき目標は何でしょう。それは、色々な表現はあるとは思うのですが、あえて、何かの隠れ蓑となりかねない言葉を真っ正面から使わなくとも良かったのではなかろうか、と、今更ながらに些細というか余計なことを思ったりもするのです。

以上、言いたいことは概ね言い尽くしましたので、4月からは本来の業務に専念しようかと思います。このところ、どうしても司法制度改革の行く末が気になって仕方がなかったので色々と述べてきましたが、賛否はともかく少なからぬ反応を頂き、有り難いことでした。司法制度改革のあり方を巡っても、善き社会を見据えての活発な議論が、少しでも多くの方々により交わされる環境となるよう期待したいと思っています。

 

 


  1. 早速そのスローガンを使用して頂いておりますので、この点はとりあえず日弁連新会長のごあいさつをどうぞ。 

  2. 当時はロースクールも設立されておらず、大学院は司法受験生を寄せ付けない雰囲気も感じられたので、私は4回生終了時点で2単位を残し以後休学した。残った2単位を取得して卒業したのが7回生の10月であった。既に、その時点では兼業の許可を得た上で司法修習生になっており、随分と変則的な大学生活を経ることになった。 

  3. もう一つ可能性があるとすれば予備校でP&Cの井藤先生(現・岡山大学大学院法務研究科教授)に教わったのかもしれないが、これも今となっては定かではない。 

  4. 実際のところは、東京は人多過ぎで住んでられない、埼玉は暑過ぎて住んでられない、札幌は雪多過ぎて住んでられない、等の理由も無いわけではない。 

  5. この点を問題提起したものとして、愛敬浩二「「法の支配」再考 : 憲法学の観点から」(PDF)社會科學研究第56巻第5/6号(2005)、石澤淳好「「法の支配」論への一つの懐疑」(PDF)東北薬科大学一般教育関係論集第22巻(2009)、がある。 

  6. それでも、誰がやるのかと思えばやるしかない、ということであろう。 

  7. 長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』149頁(東京大学出版会、2000) 

  8. 井上達夫『法という企て』37頁(東京大学出版会、2003) 

  9. もっとも、井上教授自身は法の支配に関する議論を発展させて、「強い構造的解釈」というものを提唱している。井上・前掲57?67頁。 

  10. 長谷部・前掲149頁 

  11. もちろん、前掲の司法制度改革審議会の意見書では、法曹人口以外の方策についても総花的な提言をしていないわけではないのだが、そのうちまともに実現したものはどれだけあるのか、という点についての疑問は尽きない。 

  12. この点、小林正啓弁護士が「佐藤幸治教授に足りないもの」という記事にて述べられているような、辛辣な意見も存ずるところである。 

対話篇・法曹の質劣化論

(以下は法曹養成問題について語る弁護士の架空の対話である。)

「法曹の質が劣化している、という意見があるね。」

「まあ、『劣化』というのは宜しくないと思うのだが、それについては東大の太田勝造教授だったかな、実証的研究を既にやっていたと思う1。」

 

若手は劣化しているのか?

「どんな内容?」

「弁護士の修習期が大きいほど、民事弁護の質は高いということだ。」

「えっ、修習期が大きい?」

「そうだ。経験が長い、ではない。」

「ということは、比較的弁護士経験が浅い方が質が高いということか。」

「そう。ベテランが質が高いという結果ではなかった。」

「逆に、依頼する方は弁護士が若いのを好まないことが多いようにも感じるけどな。確かに、若い人の方が一生懸命やるからね…。」

「すなわち、『法曹の質の劣化』なんていうのも単なる幻想でしかないということだよ。一方的に若い人にレッテルを貼るのではさすがに宜しくない。」

「ただ、例の太田教授の研究は、裁判所に出てきた書面に基づく評価という限界はある。」

「質の問題は対裁判所に限らないだろうから、さらなる研究が待たれるな。」

「ところで、修習生を見ていての感想では結構ひどい意見が出て来ることはあるな。司法研修所の起案の内容がアレだというような話も聞くし、模擬裁判やらせたらグダグダだとか何とかというような話はある。」

「そのあたりは数値化できないだろうけど、実感としてはあるのだろうね。ただ、果たして自分だってそんなにほめられたような起案してたかよ?一部の話だっていえばそれまでだ。」

「弁護士としての考え方とか仕事振りがどうか、って問題もあるようには思うが?」

「若い人からびっくりするような主張を受けることはたまにある。でも、そういったことは若手に限ったことではなくて、むしろ都会にいる中堅どころが荒唐無稽な主張を展開してきてもっとびっくり、ということはあるな。あれは何でだろうか?」

「力関係だな。それだけ顧客側のプレッシャーが強くなり過ぎて抗えなくなってるってことだよ。」

「なるほど。力関係とかカネ関係という話になってくると、これからのトレンドはやはりスラップ訴訟ということになりそうだな。」

「さすがにどうかと思うけどね。例えば、ある国の指導者は、うるさい政敵がいると容赦なく名誉毀損訴訟に持ち込んで破産に追い込み、政治生命を失わせるといったことをやってたと聞いた。」

「ああ、あそこはコモン・ローの国なんでそれも『法の支配』2だ。」

「法の支配3…。我が国もそうなっていくのだろうかね。物言えば唇寒し、だ。」

「あと、食っていけなくなって横領、ってのはもはや質の問題というのもどうかと思うが、最悪だね。」

「まったく頭が痛い話だが、それは今後も増えるだろう。ただ、どちらかというと若い人の問題ではない。そもそも、そんな不祥事を起こす奴らが多額の金を預かれることが不思議でならんのだが。」

「若手の方が、環境が厳しいってのを最初からわきまえて順応しているところはあるだろうね。むしろ、中堅やベテランが、今までどおりの仕事ぶりで何とかなると思って経営の仕方を考えないと、大変なことになるっていう側面はある。」

「預かり金の横領の問題は深刻だ。総本山もさっさと第三者預託の仕組みを何とか構築して義務化してしまうとか、何か上手い方法を考えないとダメだと思う。」

「そこは喫緊の課題だね。」

 

気質の変化

「どうも弁護士の仕事ぶりが今までに比べておかしい、ということは目に付くよね。特に営業手法とか事件処理についてなんだが。景品表示法違反まで行くようなのはアウトだが、そうでなくとも何か知らんが広告はえらく盛ってるし、事件の処理では依頼者の主張を鵜呑みにしすぎる。若手に比較的多いと思う。」

「何も若手に限ったことじゃないだろう。業界全体の仕事のあり方というか、雰囲気は変わってきている。」

「過当競争による影響もあるかな。」

「それが原因かどうかはともかく、確実に気質の変化はある。」

「そう、劣化だとか低下とかいう言葉を使うのはいかがかと思うが、『気質の変化』は近年の弁護士業界においては強く感じる。」

「それが悪いことなのかどうかなんて分からないね。結局、そのような弁護士の在り方について、多くの人々の同意が得られるかどうかということなんだろう。結果を考えずに言いなりに動いてくれれば満足だとか、安くて悪いサービスでも良い、って人がいれば、それは頼む人の自由だよ。」

「そんな人に限って、言ったとおりにやっても結果が出ないと大変なクレーム付けるんだけどな…。そして、実際のところは、高くて悪いサービスが跋扈している。」

「不思議なことだがそのとおりだ。」

「ただ、『社会生活上の医師』だなんていっている割には、医師と違って弁護士には応召義務がないから、まだ自分なりに責任持って判断する自由はある。それでも、経済的なところを握られれば、弁護士の判断の自律性ってのもどんどん損なわれていくんだよ。」

「確かに、カネのことが頭をよぎって事件を受任するかどうかの判断が曇るところまで至ってしまえば、多分、その時が弁護士の辞めどきだろうな。」

「誰か違うことをいうのがいるから、いざというときに役立つということはあると思うのだけど。例えば、顧問先がビジネスプランを相談しに来たが、それがどう見ても違法だったらどうする?止めろといわなきゃならんだろ。カネもらってるからってお墨付き与えるとかしちゃならんのだと思うよ。」

「そりゃあ修正してどうにかなるなら、ぎりぎりを狙うって方法もある。石橋を叩いて壊すようなことは望まれてない。そこで知恵を出せるかどうかが勝負だよ。」

「修正の余地があればね。でも、だんだん力関係が変わってくると、どっちにしてもはっきり物をいいにくくなってくるんじゃないかな。」

「それはもうしょうがないんじゃないか?」

「まあ、そのうち人工知能が発達して、弁護士の仕事も根本的に無くなる日がくるのかもしれないけどね。だけど、法律を専門的に扱う仕事自体は、これまでだって長く続いてきた職業なんだから、何か変わらずに最後に残るところはあるんじゃないかと思うんだよ。」

「そうだろうか。もはや弁護士も普通の仕事の一つでしかない、ということではないのかな。」

「難しいところだね。ただ、そうなっていくのだとしても、特有の課題ってのは少なくないんじゃないかな。目をつぶってしまえば、その先にあるのは『法の支配』4を装ってはいるけど実は無法地帯だ、ということになりかねない。変わらない役割が何なのかってことを考え続けることはどうしたって必要なんじゃないか。」(おわり)

 

 


  1. 太田勝造「弁護士の民事訴訟におけるパフォーマンス評価: 法曹の質の実証的研究」(PDF)東京大学法科大学院ローレビュー第9巻132頁(2014) 

  2. 例えば、井上達夫『法という企て』37頁(東京大学出版会、2003)には、法の支配論への批判について「法の支配は、実定法の物神化によって体制的権力を批判免疫化する機能をもつか、さもなくば法的議論をイデオロギー闘争の代用品に転化する機能をもつ。いずれの場合も、法の支配は、政治闘争のアクターが「政治的に中立な法的論議」の仮構に自己の党派性を隠蔽して正統性を欺瞞的に調達することを可能とする装置である。」とのまとめがある。 

  3. 無論、法の支配も論争的な概念であり、例えば、長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』149頁(東京大学出版会、2000)には、「ことばの使い方はもちろん人によってさまざまでありうるが、法の支配を「正しい内容の法」の支配と同視し、望ましい法秩序のあり方をすべて含むかのように濃密に定義してしまえば、この概念を独立して検討の対象とする意義は失われる。」とある。 

  4. 「社会の隅々まで法の支配を」あるいは「すべての分野に法の支配を」といった目標が掲げられているとして、ここでの「法の支配」とはいかなる意味を有するものであろうか。仮に、それが「理性的な人々の行動を規制するために法が備えるべき特質」という意味(長谷部・前掲149頁)であるとすれば、何を言っているのか不明である。だからといって、それを「社会のすべての場面で法令遵守を実現する」といった意味に捉えるならば、形式的法治主義と何が違うのかという疑問がある。一方で、それが濃密な意味での「法の支配」を意味するとすれば、果たして、「正しい内容の法」を理解した適切な人材を、その実現のために適切に配置して適切に活動させる条件は確保されているのか、といった点が重要な課題となるのではないか。この観点から興味深い論考として、愛敬浩二「「法の支配」再考 : 憲法学の観点から」(PDF)社會科學研究第56巻第5/6号(2005)がある。 

対話篇・弁護士食えない論

(以下は法曹養成問題について語る弁護士の架空の対話である。)

「総本山から弁護士収入アンケートが来ていたようだな?」

「ああ、それならアンケートが届く前から書いて出せと総本山から怪文書が送られて来たから渋々書いたが、自分のデータがどう影響するのかといわれると良く分からんけどね。」

「まあ、客観的なデータがあるに越したことはないとは思うから一応回答して提出はしてみたけれども、司法修習生の給費がまた実現することになるかねえ。」

 

二つの弁護士食えない論

「ところで、このあいだの臨時総会では、弁護士が食っていけないという議論に終始していておかしい、それは年寄りが若手の窮乏を奇貨として既得権を主張している、みたいな話が出てきた。」

「どうにも友愛が足りないな。色々な断絶を感じるところだよ。」

「ただ、弁護士が食えない、という話が出て来る場合というのは、無意識なのか意図的なのかは分からんが、食えないことの質的な相違を無視して感情的な議論になりがちなように思うね。」

「どういうことか?」

「あれは、年収あるいは生涯収入が他職種を下回るという問題と、文字通り本当に食えないという問題、に分けて考えるべきだ。」

「いずれにしても稼げないという話じゃないのか。どう違うというのか?」

 

ルサンチマン論

「戦前や戦中は困窮する弁護士も多かったようだし1、戦後もしばらくは楽ではなかったとも聞く。ところが、司法試験合格者を制限し続けたこととも相まって、バブルの時期には飛んでもない収入を得た人もいたようだ。最近も過払いバブルが起きた。だが、それと前後して大幅な増員があって、そのあおりで収入の平均値は大幅に減少した。歴史的にはそんなところだろうか。」

「なるほど、良い時代を見たことのある弁護士から見れば、難しい試験を受けて取った資格なのに民間企業や公務員と比べて年収やら生涯収入が少なくなるのは更にけしからん、という思いもあるだろう。心情的には理解できないわけではないけどね。」

「それは単なるルサンチマンでしかない。」

「果たしてそうだろうか。収入の問題に関しては、それだけとは言い切れないところもあるんじゃないか?」

「強いていうなら人材獲得競争の問題はある。カネが職業的魅力の全てだなんて言わないけれども、現実にはいくら稼げる仕事かどうか、ということは職業選択の上での最有力のインセンティブとして働くことは否定できないからね。」

「確かに、これだけ状況がはっきりしているように見えると、これから弁護士なんかになろうとする人もいなくなるな。」

「司法試験を受験する層の多数は、大企業に就職して良い待遇で働くチャンスもある層と重なる。そうすると、よっぽどの優秀層だか野心家でもない限り、どっちを選びたくなるかの勝負は付いている。」

「結局、司法試験の合格者数をいじっても、優秀な人材に見向きもされなければ意味はないね。それでも、需要っていう点だけでいえば、事務所によっては知力体力あふれる若い人材なら欲しい、っていう需要ならかなり強いはずだが。」

「でも、良く聞くでしょ?『人は欲しいが、良い人がいない。』って。」

「残念ながらそれは良く聞く話だ。」

「制度をころころ変えずに志願者を安心させることは大事だけれど、もう、それだけでは良い人材が流れてくる状況では無くなってしまったな。」

「ところで、岐阜の山奥の弁護士はイノシシを捕獲しているってのは本当なのか?」

「そういう話はあった。あの世代はユーモアなら負けないのだけどね。でも、自分たちが食えなくなるからどうにかしろ、と言うのは良くない。」

「どうして?」

「公共性を偽装している。弁護士が自分の稼ぎが減ったことを理由に参入規制を強化しろと主張してしまうのでは、弁護士以外の誰も理解しない。もちろん、弁護士の中にだって理解しない人も出て来る。」

「もっとも、価値に見合った配分がなされていない状況があるなら、それを許すのは良くないことだとはいえるのではないか?」

「弁護士の仕事に対して不当に評価が低くてタダ働きを強いられているとか2、あるいは、弁護士になるまでに大変な教育費用を要するのにそれを回収できないような状況になっているなら3、そのような仕組みのままであるのはおかしい、ということはいえる。」

「そう主張できるほどの根拠は既にあるのだろうかね?」

「貸与制の世代が貸与金の返還を迫られる時期になったときが一つのヤマではあるだろうね。万が一、支払に困難を来す人が続出するなんて事態になったら、問題が完全に表面化することになるだろう。」

 

飢え死に論

「もう一つの弁護士食えない論は?」

「破産すると弁護士は資格を失う4。そうすると、弁護士が本当に食っていけないような仕事として存在することを、法も想定していない。もし、働く意欲のある弁護士資格取得者が、弁護士の仕事をしても生活保護水準以下の所得しか見込めないようなことになるなら、制度的な誤りが生じていると見るべきだろうね。」

「収入が減ったって話はあっても、さすがに飢え死にするという話は聞かないけど。ほら、人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはない、って誰か言ってたでしょう?5

「自発的に登録を抹消した人はともかく、競争に敗れて本当に食って行けなくなった人は仕事を辞めるしかない。辞めてしまえばその声は表に出てこない。聞こえてこないだけだ。その予備軍は既にいるかもしれないが。」

「既に登録を抹消している人も少なからずいるんだから、飢え死にするようなことになるくらいだったら、さっさと転職したらいいんじゃない?」

「プロフェッショナルと称するような職業に一旦就いてしまうと、いわゆるつぶしが利かないという問題はある。若い人ならまだしも、ベテランが転身を迫られるようなことになると想像するだけで恐ろしい。弁護士やってた奴なんて杓子定規にうるさいだけでビジネスを理解してないのばっかりだ、なんて言われて煙たがられるよ。」

「でも、競争社会というのはそういうものなんだし、単なる甘えに過ぎないでしょう。弁護士を廃業したら、豹変を厭わず素直になって再就職先を探せば良いというだけの話なんであって、人間、いかなる場面でも常にベストを尽くせということではないの?」

「例えば、プロ野球選手なんかを見ていると、第二の人生を歩むのに大変な思いをしているような人も少なくない。野球しかやってなかった人がいきなり飲食店を経営したりしてもうまくいくかどうか分かんないよね。もちろん、うまくいっている人もいるだろうが、中には犯罪に走ってしまう人もいる。人それぞれ、というしかないのかもしれないが。」

「経営が上手くいかないような弁護士の存在は、社会から望まれていない。だから,弁護士としてうまくいかなかったら業界から退出しろ、という考え方だってあるでしょ?」

「まあ、それは一つの見識ではあるだろうね。でも、そう易々と言い切れるようなものではない。」

「どうして?」

「弁護士を辞められないってのは辛いことでね。追いつめられると、資格を失うような事件を故意にやるか、あるいは自殺する人も出て来る。自分には関係ないと思っていたけど、世話になった人がそうなったこともある。自由競争を高らかに掲げることは結構だけども、悲運を辿った人々のことが心中去来すると、極めて複雑な思いを持たざるを得ない。」

「それは、社会一般にも同様の問題が生じるのであって、決して弁護士特有の問題ではないだろう。ただ、辞めにくいとか、雇われづらいというような問題があるのだとすれば、それはどうしたらよいのだろうね?」

「呑気にハッピーリタイアを語る前に、真剣にセカンドキャリアを語る必要がある。」

 

食えない論と参入規制

「臨時総会でも、司法試験合格者の増員を認めた上で、新規参入先は渉外事務所か組織内弁護士のみにしろ、という修正案でも出したら良かったんじゃないか?」

「それは無理過ぎるな。ただ、弁護士への需要があるのだとすれば、かなり偏在してるのだろう。だから、山奥でイノシシを捕獲しているなんて話が出て来る。」

「問題は、弁護士資格取得者を採用したい側の要求に応える人材が育っていないことだ。国際業務や訴訟外業務に、ロースクールや司法研修所で教育する法廷中心の技術なんて役に立たない。ましてや司法試験の受験技術なんて尚更無駄だ。ローや研修所のカリキュラムも変わるべきで、外国語とかITとか知財とか、もっとすぐに役立つ勉強をさせたら良いんだよ。」

「その認識には異議があるね。訴訟で勝つか負けるか分からねえ奴がまともな契約書作れるかよ。そりゃあ、実務では司法試験科目以外の法令知識が要求されることも多々ある。ただ、それを一から勉強するって場合も、元々優秀な奴ほど理解が正確で早い。そこでちんたらやってつまづくような弁護士じゃ、ボスから使えねえって言われてクビになるぞ。基本となる法律科目の確固たる理解があってこそ他の法令も身につけ易いんだよ。だから、司法試験で学力が試されていることの意味をバカにはできない。」

「でも、参入者の学力が足りないのは良くない、というのは参入規制の強化を正当化するにはいささか単純過ぎはしないのだろうかね?」

「弁護士になってから競争だ、というのであれば弁護士になる前だって競争だ。それなら筋は通ってる。てめえら今の合格率で安心できねえとか何とか甘いことガタガタ言ってんじゃねえ、と年配者に凄まれたらとても反論しにくいだろ。もちろん若い人から大反発を食らうことは必至なんだが。学力にこだわらず参入させてもいいんだという主張もあるんだろうが、その結果どうなるかは知らんよ6。ただ、訳の分からん主張を繰り広げる代理人が増えたりすると裁判所は勘弁してくれって言うんじゃないか。」

「司法試験の合格者数を増やしても、需給の調整は市場における競争によって実現されるから、需要が減れば廃業が増えて結果的に適正な弁護士人口に収斂すると思うのだけど。そうであれば、わざわざ資格取得の時点で人員を絞る必要なんて無いんじゃない?」

「資格を取っても仕事に就けないような人が増えても、社会全体として良いことはない。例えば、資格の取得コストが無駄になる。」

「でも、取得コストだけなら、旧司法試験の時代だって無駄になってる人多かったでしょ?」

「資格のない人が食えないのと、資格のある人が食えないのでは、全くその意味が違うという問題はあるだろうな。弁護士の資格を与えられてしまうとかなり色々なことができてしまうから、それが正しい方向に使われればいいのだけれど、間違った方向に使われてしまうと不祥事のオンパレードになりかねない。そこをどう考えるかだね。」

「で、結局、合格者は何人にすべきだっていうのか?」

「それは依然として難しい問題だとしか言い様がない。ただ、司法試験受験者4万人超のころの1500人と、法科大学院受験者が1万人を割った中での1500人とでは、テストされる水準には当然違いが出る。」

「旧司法試験のころは受験者が多いって言ったって、記念受験みたいなのも多かったんじゃないか?」

「それはそうだね。ただ、そういう層がいたことを考えたとしても、法科大学院の志願者数を見る限り、もう底が抜けてしまった。法科大学院に入る時点での選抜がまともに機能していない。だってどれだけ定員割れしてる?もちろん、一握りの優秀層はともかく、参入者の学力には大きな懸念がある。」

「そんなことを言ってみたって、昔学んだことはどんどん忘れていくのが普通でしょ?司法試験の時の成績だけに権威を与える発想自体おかしくないの?」

「そこは、既に弁護士をやっている人間も、注意しないといけない。うかうかしていれば、次々と若い期の人たちに追い越されるだろう。」

「実務に就けば、新たに要求される能力だって次々と増えていくでしょう?」

「それもそのとおり。だから絶えず勉強しなきゃいけないし、競争しながら創意工夫して仕事していくことが大切だ。」

「本当に法曹の質が劣化しているなんて議論は成り立つのかしら?」

「まあ、劣化とか低下とか言い出すと、どこかの社会学者みたいな人のように炎上しそうだし、不必要に言っちゃならんだろうな。ただ、そこも極めて難しい問題で良く考えておくべきことなのだろうから、引き続き議論することにしよう。」(つづく)

 

 


  1. 大野正男著・日弁連法務研究財団編『職業史としての弁護士及び弁護士団体の歴史』(日本評論社、2013)にこのあたりの経緯は詳しい。まさに、歴史は繰り返すということを痛感する内容である。 

  2. 日本司法支援センター(法テラス)が扱う民事法律扶助関連業務や国選弁護業務については、もちろん一定の報酬はあるからタダではないにしても、その業務量や受任者の能力を問うことなく低廉な報酬基準を設定していることから、この観点からの重大な問題が生じていると見るべきであろう。今のような状態が続けば、引き受け手が出なくなる懸念がある。その結果を誰がどのように引き受けるべきなのであろうか。 

  3. 近年においては、ロースクールの授業料を奨学金で賄ったり、司法修習中に貸与金を受けたりした場合には、重大な問題が生ずることになる。 

  4. 正確には、「破産者であつて復権を得ない者」は弁護士となる資格を有しない、とされる(弁護士法7条5号)。なお、弁護士が破産手続開始決定を受けた場合には、委任契約の終了事由にも該当するから(民法653条2号)、いずれにしても業務の継続は不能であろう。 

  5. 高橋宏志「成仏」法学教室307号巻頭言(2006) 

  6. ミルトン・フリードマン(村井章子訳)『資本主義と自由』274頁(日経BP社、2008)では、「無知な一般市民には腕のいい職人を見抜けないというなら、必要なのは、誰の腕がいいのか情報を公開することではないか。そうした情報を与えられたうえでなお無資格者を利用するとしたら、それはその人の勝手である。」として、免許制を正当化する理由はもはや存在しないとの主張がなされている。フリードマンは医師免許制度を例に挙げ、免許制は医療の量を減らし質を低下させているとの結論を導いているのであるが、同様の批判は弁護士資格制度についても妥当するものではあろう。 

日弁連臨時総会を終えて

平成28年3月11日午後2時より、弁護士会館にて日本弁護士連合会臨時総会が開催されました。議題としては、司法試験の合格者数の問題、司法試験予備試験のあり方に関する問題、そして司法修習生への経済的支援に関する問題、といったものです。詳しくは過去の記事(臨時総会多事争論)などで触れておりますので参照していただければと思います。

 

決議の結果

結果としては、藤本一郎会員の提案による修正案は否決され、日弁連執行部案は可決、招集請求者案は否決、ということになりました。票数は次のとおりでした。

日弁連執行部案
出席会員総数 13406人
賛成 10379票(本人出席494・代理出席9843・弁護士会42)
反対 2948票(本人出席201・代理出席2738・弁護士会9)
棄権 79票(本人出席14・代理出席64・弁護士会1)

招集請求者案
出席会員総数 12756人
賛成 2872票(本人出席189・代理出席2674・弁護士会9)
反対 9694票(本人出席451・代理出席9201・弁護士会42)
棄権 190票(本人出席17・代理出席172・弁護士会1)

なお、2016年3月1日現在の日弁連の弁護士会員数は37760名ですから、この問題をめぐる実際の多数派は、興味がない、という人たちのような気もしないではありません。

 

議論の評価

招集請求者側の主張については、どうもいわゆる「弁護士食ってけない論」あるいは「法曹の質の劣化論」に終始してしまったような気がしてなりませんでした。特に経済的な苦境という問題は、「岐阜の山奥の弁護士はイノシシの捕獲で食っている」みたいなユニークな発言もありましたが、そこを自分たちで言ってはいけないよねえ、という点については考慮できなかったのかという気がしてなりません。我々は競争に打ち勝つ気概があるのだ、しかしなお公益活動を維持するメカニズムの崩壊や学力低下の問題がある、それは社会の問題なのではないか、ということをもっといえなかったのか、と思えてなりません。

もちろん、自称若手会員である私も、招集請求者側の意見を言うのは老人ばっかりだみたいなことを言われるのも嫌でしたので、並々ならぬ決意を持ってそういう意見を述べる準備はしていたんですけども、討議が打ち切られてしまいましたのでその思いを果たすことはできませんでした。

大変無念です。

そうしたところ、おそらく本当の若手会員らしき方から「仕事あるんだから早く終わらせろ!」「暇な老人達の議論につきあってられるか!」的なヤジが飛んできましたので、私はここに法曹の質の劣化を見たような大変複雑な思いを持ちました。

さて、私とは意見は異なりますし、結果的に否決はされましたが、藤本一郎先生の獅子奮迅の活躍には触れなければなりません。当日修正動議に必要な50人を揃え、そして演台に立って、将来の法曹志願者に安心して司法試験を目指してもらえるようにして欲しい、もうネガティブキャンペーンは止めにしませんか、と切々と説く藤本先生のお姿には感銘を受けざるを得ませんでした。

藤本先生は、かつて、自分が人徳とかカリスマというものが欠けているということを佐藤幸治教授の前で話したところ、「自分で人徳やカリスマがないと決めてしまうのはおこがましい。人徳やカリスマは後からついてくるものだ。」とおこられたといったエピソードがあるらしいのですが1、まさに後からついてくる何かがあるように見えてなりませんでした。

そして、日弁連執行部案の賛成意見を聞いていましたが、まあ、これも事前に仕込まれているといった感を受けるものもありました。概ね、ロースクールのすばらしさを説いたり、インハウスなどでの需要が強いといった意見ではあるのですが、どうも聞いていて、果たして、あなた方は現実を直視できているのですか、浮ついた意見を述べてお恥ずかしくはないのですか、との思いを持たざるを得ず、何か将来に向かった暗澹たる思いに囚われざるを得ませんでした。

 

当会の動向について

さて、釧路弁護士会では、日弁連の総会における従前の慣例としては、日弁連執行部からの提案があればこれに弁護士会として賛成し、会長がそれと同じ趣旨の委任状を集めるという扱いをしていました。

そして、実際に執行部案に反対して総会に出た人がいるような話はこれまで聞いたことがありませんでした。

今回は、私としては臨時総会の招集を請求してしまったので同じようにするわけにもいかず、総会に出席して執行部案に反対する投票をするので賛同する方は私に委任状下さい、というお願いを会員宛にしました。当会の執行部はこのような異論にも配慮してくれて、弁護士会事務局からも各会員へそのようにきちんと案内してくれました。

このように議論を尊重し信義を重んずる当会の諸会員の意識は、一方的にFAXニュースを垂れ流すような方々のそれとは全く異なるものです。

すると、当会の長老ともいうべき先生から真っ先に委任状が届き、また別の長老ともいうべき先生からは、総会では堂々と意見を述べてきなさい、健闘を期待している、との激励まで頂きました。もちろん他にも少なからぬ委任状をお預かりしたのですが、有り難いことでした。この地域でも司法制度改革の行く末を心配している人は少なくないとの思いを持ちました。

当会に限っていえば、今回の決議が与える影響はそう大きくはないものでしょう。結局、司法試験の合格者数が増えようと減ろうと、あえてこの地方での勤務や開業を目指す人が今後激増する見込みがあるとは言い難いからです。司法試験の合格者が増えたところで、根室や遠軽で開業する人が増えるようには思えません。司法過疎の問題の根本は、もはや司法に限った問題ではなく、地方経済の収縮と人口減少の問題であると私は見ています。

稼げなくなれば田舎で仕事なんてしない、それは若い人には当然のことです。都会の方が競争が多くても稼げるチャンスもあるし、あるいは、稼げるかどうか分からなくても都会の生活環境の方が良いと考えるのが普通です。それは元々仕方がありません。そのような実情を無視して「地方に行け」なんて主張する増員派の先生方は虫が良すぎます。地元出身者がUターンして戻ってくるのはあり得ることですが、そうでなければ、奇特な人でもない限り余所から来てこの辺りで仕事しようとも考えないでしょう。

それでも、当会では司法修習などの機会を通じて修習生には当会の弁護士の活動の良さを理解して頂けるよう会員が皆努力していることはいうまでもありません。それでもなかなか残ってくれないというのであれば、これもまたやむを得ないことなのでしょう。

司法制度改革が「この国のかたち」を問うものであるというのであれば、日本の端に位置する弁護士会に在りながらも「この国のかたち」を考えて仕事をしていくことが、これからの私の課題であるというように感じております。

 

 


  1. 藤本一郎「「自分の限界」を超えて」京都大学広報誌紅萌第15号8頁。佐藤教授におこられたという話はともかく、確かに当時の京大法学部はかなりの自由放任ぶりで、その中で各自学んで各自の道を進んでいくという雰囲気はそれなりにあったのではないかと思っている。近年は、法学部の管理が厳しくなっているとか色々問題はあるようなのだが、今後の学生さん達も同様にあってほしいということを期待はしている。 

弁護士の需要を考える・その3

これまで、弁護士の需要を考える、及び、弁護士の需要を考える・その2、で具体的な実例等も交えて、弁護士の需要とは何か、ということを考えてきたところですが、やはり、生まれてははかなく消える需要ということのようで、なかなかその機会を捉えることは難しい、といった感があります。

 

弁護士の1丁目1番地

ところで、弁護士法1条1項はこのように定めています。

弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。

これは単なる精神規定だという考え方も当然あり得るのですが、この使命というのは何か、ということは考えてみても良さそうです。

「社会正義」とは、人が社会生活を送る上で求められる正義をいうものと解される。「正義」の意味については、アリストテレス(Aristotelēs)が、配分的正義と矯正的正義(平均的正義)を区分し、前者には各人の値打ちに応じた比例配分の原理が妥当し、後者には給付と反対給付、犯罪と刑罰、損害と賠償という等価性の原理が妥当するとして以来、今日までさまざまに論じられている。1

さて、概説書の解説にはこうあります2。2300年以上前の偉大な哲学者まで登場してきましたが、正義の問題を語るには欠かせないということでしょう。

 

正義とは何か

高中先生の本にはアリストテレスの正義論が例示されていましたので、せっかくですから、私自身は哲学には全くの門外漢ではありますが、あえて、正義とは何かという観点からこの問題を考えてみようと思います。

私が教わった限りでは、アリストテレスの正義論には、一般的正義と特殊的正義があるといいます。ここで、一般的正義というのは遵法のことであり、特殊的正義というのは平等のことです。

そして、平等とは、より具体的にいえば、各人の価値に従った分配が要請されるということと(配分的正義)、不平等な事態が生じたときに原初の状態への回復が要請される(匡正的正義)、ということを意味するとされます。

以上、甚だ心許ない感じの正義論の理解で恐縮なのですが(どうか許して下さい)、大枠としてはそういうことのようです。

 

弁護士の仕事と正義の実現

確かに、弁護士の仕事により、正義の実現という結果がもたらされている例は数多くあります。遺産分割で寄与分を主張するのも、不法行為に基づく損害賠償を請求するのも、未払賃金を請求するのも、犯した罪に対しては適正な刑罰を主張するのも、いずれも正義の目的に向けられた営為という見方はできます。

過払系事務所が、派手な広告を打って客を集めて取り戻しているのは、実はお金ではありませんでした。何と、あれは、正義を取り戻しているのです。

もっとも、低い水準で和解したとか、報酬が高すぎたといった理由で、最終的に依頼者に取り戻されたお金の量が少な過ぎるようであれば正義に反するという問題はあるかもしれませんが…。

 

弁護士の主戦場

弁護士の仕事が求められる場所はどこかといえば、要するに、正義を実現しなければならない場所はどこか、ということと同じです。無論、そこからは、具体的にあれこれの仕事をしたら儲かる、といったことが導かれるわけではありません。しかし、どこでいかなる仕事をなすべきか、という問題を考える場合には、この観点からの考察は大きなヒントを与えてくれます。

すなわち、正義の実現されていない場所こそ弁護士の主戦場であるということです。それは、先の正義についての考え方を踏まえれば、具体的には、各人の価値を無視した分配がなされているところと、後で生じた不平等を回復する必要があるところ、です。より平たくいえば「取り過ぎ」なところ、といっても良いかもしれません。

勿論、そのような状態が明確に見える場所もあります。そこでは皆が従来どおりの仕事を請け負うでしょう。しかし、そのような状態が明確でなくとも、社会の在り方を洞察しながらそれがどこなのか考える、ということが弁護士の仕事を続けていく上では必要とされる営みだと思います。

こうした観点からは、目先の利益に囚われず、社会を鋭く見つめて問題点を探す姿勢を維持することが大切だということに思い至ります。公益活動の重要性は事ある毎に指摘されますが、それは弁護士の仕事を持続させることの根本に関わっているからではないのでしょうか。

 

まとめ

到底、明確な結論が出そうにないことですが、私にとって答えの出ない弁護士道ということではあります。そして、精神論だけでは食っていけないんだとの実際上の困難も当然あることでしょう。

それでもなお、私としては、社会を良く見つめて、あるいは周りの人々の話を良く聞いて、どこでいかなる仕事をなすべきなのかということを今後も良く考えて、実践して行きたいと思います。

 

 


  1. 高中正彦「弁護士法概説」〔第3版〕26頁(2006、三省堂) 

  2. なお、同書では続けて「しかし、ここでは「正義」の概念を精緻に定義づけることよりも、近代憲法の基本原理である自由と平等を国民の社会生活上で実現するという趣旨にとらえて、弁護士の使命を理解していくのが妥当であろう。そして、社会正義を「実現する」とは、そのような社会正義が達成されるように努め、行動することをいうものと解される。」との見解が示されている。 

弁護士の需要を考える・その2

前稿「弁護士の需要を考える」に引き続いて、具体的な事例に基づいて弁護士の需要というのは本当にあるのか、あるとしたらどこに発生するのかといったことを考えてみます。

 

弁護士保険の普及

自動車保険や火災保険の特約として、弁護士保険が普及しています。

確かに、もらい事故では役立つ保険です。日弁連の新会長も弁護士保険の普及に力を入れるとか言ってた気がしますので、まあ、それはそれで頑張ってもらいたいと思います。

前の記事で訴訟が減っているという例を挙げましたが、交通事故案件は微増しているとの指摘がありました。これは弁護士保険の普及によるところが大きいです。但し、増えた主な部分は軽微な物損事件で、訴額が小さい事案で僅かな過失相殺割合の差を巡って血みどろの争いを繰り広げるといった様相が多く見られるのではないでしょうか。

この状況は合理的とは思えません。

もっとも、人身への被害について保険会社の提案水準が低いという問題はあって、弁護士を付けて争えばより満足いく可能性があるということで訴訟になる例もあります。また、保険会社サイドも、理不尽に突っ掛かってくる相手方に苦慮するような案件で、弁護士が入ることで処理がスムーズになることもあります。

そのような面では、弁護士保険が積極的な需要を掘り起こしている意義を認めても良さそうです。

この需要が減っていく社会変化があるとすれば、運転者支援システムや自動運転の普及でしょうか。

例えば、最近、富士重工業がアイサイト搭載車の事故率は非搭載車より低いとアピールしています。この減少率は結構インパクトがある数字ですので、そのような社会変化も見通して仕事を考える時期に差し掛かっているかもしれません。

さて、交通事故の負担から人々が解放される世の中がやってくるのはいつになるでしょう。

 

LACの問題点

なお、弁護士の紹介を行う日弁連リーガルサービスセンター(LAC)の制度は加入会社が増えていますが、保険会社サイドからの信頼が今ひとつではないかとの疑問があります。

この問題、弁護士保険の普及に力を入れるとか呑気に言っている場合ではなく、対策が急務です。

例えば、この制度には大手の一角を占める東京海上日動が入っていません。

同社は、弁護士保険案件で弁護士の紹介を要する場合には、自社のネットワークから弁護士を紹介する仕組みを作っていたはずです。LACでたまたま変な弁護士が当たると色々問題があることを懸念しているようにも感じます(それでも契約者が変な弁護士を連れてくる場合は有り得るのですが。)。

 

顧問弁護士とインハウス

企業や役所が顧問料を払って顧問弁護士を確保し、業務上の法的問題を継続的に顧問弁護士が処理することは普通に行われていますが、近年では、企業や役所が自ら弁護士資格者を採用して法的問題を処理させることも多くなりました。

いわゆる組織内弁護士(インハウス)です。

このような現象は、企業や役所のコストの削減という観点から大変意味があります。組織のコンプライアンスを強化する意味とかあるかもしれませんが、そこは結局経営者側の意識次第のように思います。

但し、一定の企業規模でなければコスト削減効果は限界があります。

ごく単純にいえば、顧問料その他の弁護士費用よりもインハウス雇用による人件費が小さくならないと、経済的メリットに至らないでしょう。もっとも、この図式からは、インハウスの給料が低下すればその雇用機会は増えるでしょうし、実際そうなっていると見えます。

こうして、一定規模の組織になると法律事務を内製化していくので、顧問弁護士の仕組みは縮小に向かうことが予想されます。顧問料を収入の基盤として経営を安定させていた弁護士には、インハウスの普及による影響は大きいかもしれません。

私には余り関係ないですけどね。

と思っていたら、近年、顧問先が減る事象が生じたことはあるので他人事ではありません。

一応その原因は企業の再編に基づくものです(表向きの原因と言わないで下さい…)。企業自体やその拠点が減ることで顧問先の取り合いが発生する事象は、今後も次々と出て来るのだろうと思います。

 

インハウスからの転身

なお、インハウスは今後も普及していくでしょうが、いざ街弁へ転身しようとすると、全く職務内容が違うので結構辛そうです。

このところ、そんなキャリアパスを経た後輩から質問攻めされています。「現地調査はどんな格好をしていくべきでしょうか?」などという質問を聞いて目が点になったりしてるのですが、とても大変そうなので懇切丁寧に答えています。

私も先輩方には無茶な質問をしてきましたし、誰しも初めての仕事では通る道なので奮闘を期待したいところなのですが…。

 

まとめ

突発的な弁護士費用の負担が嫌がられるとすれば、それを保険で賄う発想になじみやすいところがあるので、弁護士保険の普及には一応期待したいところです。

無論、色々課題はあるとは思いますが。

そして、インハウスの普及は弁護士増員の必然的な動向です。これは従前の弁護士資格そのものの変容、すなわち法廷中心の業務の衰退をもたらして行くのでしょう。

そのような事態の当否はともかくとして、一旦インハウスで就職すると所属組織に関わる事項や関連法令には詳しくなるものの(もちろん大変特殊な能力です)、いざ転職しようとすると大変だとかこちらも色々課題はありそうです。

 

 

弁護士の需要を考える

今度の日弁連臨時総会では、司法試験合格者の人数を増やすべきか減らすべきかの議論がされることになってますが、増員派の意見によると弁護士は足りない、需要はある、ということなので、私が見ている世界と全く違う世界があるようだとの率直な疑問を持っております。

どうも、弁護士の需要というのは本当にあるのか、あるとしたらどこに発生するのかということが気になる昨今です。

 

訴訟事件の減る仕組み

そうしたところ、私はある先生から次のような質問をされました。

ところであんた訴訟の件数何で減ってるか分かる?

はあ、それは過払いが減ったのはともかくそれ以外は謎なんですが、と返すと、更に次のようなことを仰ります。

ほら、最近銀行が訴訟起こすの見ないでしょ?銀行がお金貸しても自分で取り立てないで保証会社付けるから。あの保証料どのくらいか分かる?例えば15%で金貸したとして。

5%くらいですかねえ、と適当に答えたのですが、7から8%位は取っているんじゃないかとのことです。それだけ保証料を貰えれば確かに保証会社も利益を上げられます。更に質問は続きます。

保証会社が取り立てられなくなればサービサーにさらに回るでしょ。あれは債権ナンボで買ってるか知ってる?

ああそれなら債権額面の1%とかですかね、と答えるとまあそんなもんだね、ということのようです。ここでサービサーが債権を叩き買っておけば、あとは訴訟まで持って行かなくとも細かく回収して元が取れる、ということで滅多に訴訟なんか起きない仕組みになっている、という話のようです。

以上、細かく言えば不正確なところはあるかもしれませんが、確かに仕組み上は弁護士費用を含めた紛争処理のコストがより掛からない金融システムが整備されてきた、ということになりそうです。

 

交通事故と過払いの例

似たようなことは他にもあります。

例えば、自動車保険が普及した当初は示談代行サービスがなかったので、交通事故が発生すると必然的に弁護士の登場機会があったというような話を先輩方から聞いたことがあります。

しかし、それでは色々と支障があったのでしょうか、弁護士法の規制との絡みで紆余曲折はありつつも、損保会社による示談代行が当たり前になっていった経過があります。

最近の過払い事件も同じような面はあります。

ご承知のとおりグレーゾーンは撤廃されて出資法の規制は強まりました。長期的にみれば、高金利に苦しむ人は減るので社会的にはハッピーな結果となりましたが、語弊を承知でいえば過払い事件がなくなる弁護士はアンハッピーです。

 

はかなく消える弁護士需要

さて、まとめるには事例の検討が少ないかもしれませんがちょっと考えてみます。

紛争解決のための弁護士費用を含むコストは、自分でいうのも何ですが社会にとってはない方が望ましい費用です。そうすると、社会は常に、紛争が生じてコストがかかることを回避する方向に進んでいきます。

上記の各事例は、いずれも現実そうなっている典型的なものです。

すなわち、弁護士の需要というものは、社会の変化により徐々に生まれていくことはあるのですが、対応策の整備によりはかなく消えていきます。一本調子に需要が増大するということでは必ずしもありませんし、逆に、そうなるのだとすればかなり歪んだ社会になります。

こう考えていくと、国際化が益々進展している昨今は確かに国際業務は熱いかもしれません。しかし、この分野の問題としては、複雑かつ高度な業務に耐えうる人材がどれほど得られるのかということがありそうです。

例えば、日本法のみならず諸外国の法令に通じなおかつ外国語での意思疎通にも不自由しないという人材が必要になってきますが(そういう人材は確かに居るので凄いとは思います)、法曹人口を増やしたところで下の方に裾野が広がっていくのであれば、適合する人材を十分に得ることはできないでしょう。

 

地方の弁護士需要の実感

一方で、地方に住んでいると、どうしても経済活動の収縮と人口減少の影響は肌で感じざるを得ません。

例えば、このあたりの会社を破産させて清算するような仕事をすると、この地域からまた一つ会社が無くなり、そして人も去ってしまうことになるので、大変悲しい思いにもなります。

あるいは、遺産分割がまとまって相続人にお金を送ろうとした時に軒並み管外の金融機関宛になっていたりすると、資本が人と共に流出していく姿を目の当たりにすることになります。

そういったことが日々起こっているのが、地方の実情です。

弁護士を必要とする問題があっても権利の動く機会が少なかったり、あるいはその量が小さいということになれば、法曹人口が増えたところで社会的な意味は乏しくなってしまいます。

この20年余りのトレンドとしては法曹人口の増加、とりわけ弁護士人口の増加が志向されてきたところですが、このような方向性は、結局、紛争処理コストを巡る社会のあり方というものを見誤って策定されてしまったものではないか、との感を持たざるを得ないところです。

 

なお何をなすべきか

さて、そんな状況の中で、私に何ができるでしょう。

強いていうなら、個別の紛争解決活動か公益活動かを問わず、この地域の人と社会のためにあらゆる知恵を出し尽くすことが最後に残る役割であるとの自覚はありますが、それでいつまで仕事が続けられるでしょうか。

なお先の見通しは楽観的なものではない、と感じています。

 

 

臨時総会多事争論

平成28年3月11日に開催される日弁連臨時総会について、いろいろ意見が出てきていますので、議論の参考となるようにまとめておくことにいたします。

 

当サイトの記事

当職が書いたものは次のとおりです。

司法制度改革を問い直す?日弁連臨時総会への対応について
藤本案を考える?日弁連臨時総会への対応について
執行部案の問題点?日弁連臨時総会への対応について

当職は招集請求をした側の一人でありますので招集請求者側の議案に賛成しますが、ただ、その提案理由については必ずしも異論がないという訳ではありません。

特に、いわゆる「弁護士食ってけない論」に関しては、自分たちのために主張するのでは社会の支持は得られないのであろうという気がしています。法科大学院が自らの生き残りのために予備試験を制限しろと主張するのと同じようなもんです。それだけに、司法制度の問題、特に司法試験合格者数をどうするかという問題に関しては、それがどうして弁護士業界の問題に留まらないのか、ということをしっかり検討した上で意見を固めることが重要であると思っています。

なお、日弁連執行部の提案を支持して欲しいとの呼びかけがFAXニュースや日弁連新聞で次々となされていますが、これに対しては招集請求者案を支持する側からは勿論のこと、そうでない人たちからも結構な反発があるように見受けられます。

日弁連ニュースを執行部意見の宣伝に使うな?その1
3.11?
執行部に反対するのは『非良識』と公式に述べる団体が『自治』というのは・・・
くっだらない日弁連ニュースはもうやめたら?

執行部の考えが正しい意見だというのであれば正々堂々と議論をなすべきでしょうし、そうでないなら過ちを正すべきことです。

 

執行部案反対の動き

一部の単位会では、会を挙げて執行部案に反対するという意見も見られます。千葉県弁護士会がそのようです。なお、その後、埼玉、群馬、栃木県、山形は単位会として執行部案に反対、兵庫県はいずれの議案も棄権すると聞こえてきています(総会では各単位会にも1票分の投票権があります)。

日弁連執行部の「基本方針」に対する意見(PDF)

単位会の機関決定を経てここまで踏み込んだ意見を出したのだとすると衝撃的な出来事です。といいますのも、千葉県弁護士会は会員数700人を超える弁護士会ですからそれ程小さな会ではない上(人数的には札幌と同じ規模です)、地元の千葉大学にはロースクールだってあるからです。

外から見た印象に過ぎませんが、関東地方では東京の三弁護士会とそれ以外の弁護士会では、司法制度改革、とりわけ司法試験合格者の増員の問題に関してはかなりの温度差があるように感じます。もしかしたら、東京以外の関東地区は東京に弁護士が集中しているあおりをもろに食っている、という側面があるような気がしてきました。例えば、私は高校を出るまでは埼玉の吉見町というところに住んでいたのですが(管轄の裁判所はさいたま地裁熊谷支部です)、1時間程度で池袋に行けますから、ちょっと東京まで行って有名な事務所に相談しようかしらなんて思わなくもないですからね。

 

藤本案について

そして、第三案を出した藤本一郎先生の意見については次のとおりです。

明日の臨時総会について
第三案関連Q&A
第三案を提案します。
日弁連臨時総会・・・

これに賛同する意見も出て来るようになりました。

3月11日の臨時総会「第三案」

もちろん藤本案に対する反対の意見もあります。

3.11日弁連臨時総会?藤本先生案に対する表敬と自分の意見
3月11日・日弁連臨時総会の執行部議案について?3

藤本先生の意見は、給費制の点を除いて当職としては賛同はできないのですが、その反響は大変大きいように感じられます。

これは藤本先生の人徳ということもあると思いますが、やはり、日弁連執行部の今回の提案はおかしいという視点を持って、筋を通して司法制度改革のあり方を考えようとご提案をされたことに、多くの弁護士が関心を持っているということだと思いますし、共感する方も多いのであろうと捉えています。

立場が矛盾するようですが、私としては、この案の賛同者が修正動議を出せる程度に集まり、臨時総会でも正面から法曹人口に関する議論がなされることを期待します。私自身も、藤本先生がこういうご提案をされるのだとすると、果たして法曹の需要というものを自分はきちんと捉えているのであろうかとか、何か新しく社会の役に立つことでも自分は出来たりしないのであろうか、といった感を持つところはあります。

 

臨時総会の開催に反対

ところで、臨時総会そのものの開催に反対であるという意見もありますのでここで紹介します。

札幌弁護士会の猪野亨先生のご意見です。

日弁連臨時総会 執行部案の問題点
日弁連臨時総会 招集請求者案を批判する その2
鈴木一派の決議案と日弁連執行部の決議案の違いはあるの? 違うという説明は歪曲にしか聞こえない
鈴木秀幸氏の珍論 自民党議員は司法試験合格者数1,000人以下で同意している、妨害しているのは日弁連執行部!?
司法試験合格者数の減員運動を分裂、妨害することだけを目的とした鈴木秀幸氏を批判する
日弁連臨時総会請求者たちの決議案 鈴木秀幸氏に問う、これって本当に日弁連であげろっていう決議ですか

札幌弁護士会の複数の先生方からは、臨時総会の招集そのものに反対である、との通知が昨年の12月1日に来ていました。確かに、札幌の先生方は地方議会での理解を得ようとしたりであるとか、司法試験合格者数に関する活動を地道にしてきたところですので、唐突にも思われる臨時総会の開催には異論を持つところではあるのでしょう。

私としては、猪野先生の計らいもあって、昨年の道弁連大会では法曹人口の問題について若干の意見を述べさせて頂いたということもあり(即身仏理論)、札幌での動きは複雑な思いを持って見ておりますが、まだ活動の成果が十分ではない、あるいは議論が熟していないという点については、そのような側面も感じない訳ではありません。

なお、いずれの議案も否決すべきとの意見も出てきました。この問題について意見表明をすること自体にデメリットがあるという見方のようです。

3.11
3.11?

 

日弁連執行部案

日弁連執行部提案に積極的な賛成であるという意見は、私の探し方が悪いのか、理由を明快に示しているものは良く見あたりません。自分で総本山からFAXニュースを流して随時アピールしているので取り立てて擁護しようとする人も少ないのでしょう。皆様のお手元に配布される臨時総会議案書をそれぞれご確認頂くしかないと思います。

せいぜい、東弁の会長が執行部案に賛成する呼びかけをしているのが目に付くくらいです。

新年に誓う

しかし、これも、「会員の皆さまには、日弁連執行部提案の議案への賛成と、一部の少数の招集請求者の議案への反対をお願い致します。」「一方、この方針に真っ向から反する一部の弁護士から提出された日弁連総会請求については冒頭に述べた通りです。皆さまの良識ある対応をお願いします。」ということで、一部の少数の招集請求者は良識がない、と言わんばかりのものですから、天下の東京弁護士会の会長が新年に誓うに相応しいものか、という感を持たざるを得ません。

 

その後、60期代の人たちには執行部案への賛成を呼びかける文書の送付があったようです。

こんなファクスがきたよ=日弁連執行部案のアピールですね
執行部案賛成派からファックス

この内容を見ますと、法科大学院を廃止することにつながるのが何故いけないのか分からないし、廃止された旧制度を復活させるだけの主張をするのが何故いけないのか分からないし、何故1500人が許容できるのか分かりません。あえて苦言を申し上げますが、60期代の分析能力とか起案能力がそんなものだと見透かされるのを恐れて、それ以前の期の弁護士には送付しなかったということでしょうか。それとも、そんな根本的な能力は無視してとりあえずアピールしておけという能力を磨くのが(この種のFAXにしては見やすいという点だけは唯一評価できる)、この世代への教育の成果ということなんでしょうか。

若手会員の声ということであれば大いに結構なんですが、もう若手と自称するのも憚られるようになってしまった当職としては、ただただ、無批判に執行部提案に従うことを旨とするような活動が現れ出したことに大変な絶望感を持たざるを得ない状況です。

 

日弁連執行部案に批判的な立場からの意見としては、次のような記事があります。

3月11日・日弁連臨時総会の執行部議案について
3月11日・日弁連臨時総会の執行部議案について?2
3.11日弁連臨時総会?執行部案の問題

 

第4案の登場

そして更には第4案が現れました。第二東京弁護士会の遠藤直哉先生によるものだということですが、その呼びかけ文である「【日本弁護士連合会臨時総会 第4案】 ?国民に役立つ法律関連士業の一元化30年計画?」(PDF)によると次のような内容です。

(原議案第1項に関連して)
司法試験の年間合格者の上位約1500人に法曹資格を付与し、下位約1500人に隣接士業(税理士、弁理士、司法書士、社会保険労務士、行政書士)の資格を付与し、総合格率を9割程度とする法整備をすること(暫定措置であり、30年後に隣接士業をすべて弁護士に一元化すること)。

(原議案第2及び第3項に関連して)
法学部を改廃し、法科大学院3年間の高度かつ厳格な教育を徹底させ、学部2年または3年からの法科大学院入学を約3割認め、予備試験を廃止し、司法修習の廃止と2年研修弁護士制度などの採用により研修中の経済的負担を解消し、かつ日本型ミニ法曹一元を実現するなどの法整備をすること。

さすがにちょっとこれは…想像を絶する提案です。このような内容では隣接士業からの強い非難は避けられないでしょうし、余計に司法の人的基盤を破壊しそうです。修正案を提案できるほどの賛同者は出ないと予想します。

 

以上、ひとまず参考になりそうなものをまとめてリンクを貼りました(随時更新します)。

 

 

執行部案の問題点ー日弁連臨時総会への対応について

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弁護士会館の15階からは、眼下の日比谷公園とその向こうのオフィス街を良く眺めることができます。

さて、一方で先行きの見えない司法制度改革はこれからどうなることでしょうか。平成28年3月11日午後2時より、弁護士会館において日本弁護士連合会臨時総会が開催されます。

招集請求者側の議案について私が考えたことは、「司法制度改革を問い直すー日弁連臨時総会への対応について」で触れたとおりですし、また、藤本一郎先生がご提案をされた第三案について私が考えたことは、「藤本案を考えるー日弁連臨時総会への対応について」で既に触れたとおりです。

 

大本営発表

平成28年1月22日の夕方のことですが、突如日弁連からFAXが送られてきました。

このようなFAXをうちでは大本営発表と呼んでおりますが、ともかく、日弁連の執行部が臨時総会に際して「日弁連執行部提出議案」なるものを出す、ということでした。

続いて、同月26日にも会長名義で執行部案の支持を呼びかけるFAXが来ました。

苦言を申し上げますと、一方的に執行部が自らへの支持を露骨に呼びかけるというのでは、いささか品のない対応のように見えます1。招集請求を行った少数派会員の存在にも配慮をした上で、議論を尽くそうとする姿勢を示して頂きたいものです。議論する前から少数派を封殺しようとする組織が、果たして、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することなんてできるのでしょうか。

 

執行部提出議案

執行部提出議案は次のようなものです。

1 まず、司法試験合格者数を早期に年間1500人とすること。

2 法科大学院の規模を適正化し、教育の質を向上させ、法科大学院生の多様性の確保と経済的・時間的負担の軽減を図るとともに、予備試験について、経済的な事情等により法科大学院を経由しない者にも法曹資格取得の途を確保するとの制度趣旨を踏まえた運用とすること。

3 司法修習をより充実させるとともに、経済的事情によって法曹への道を断念する者が生じることなく、かつ、司法修習生が安心して修習に専念しうるよう、給付型の経済的支援として、給費の実現・修習手当の創設を行うこと。

率直な感想としては、1の議案以外は一読してその意味がはっきり分かりません。言質を取られたくないということなのでしょうか。

以下、議案の順序とは逆になりますが、それぞれ検討してみます。

 

修習手当の創設

「修習手当」というのは初めて聞いた言葉です。これは一体何でしょう?まさか、給付水準を大きく下げて、修習生に小遣い渡して満足させる程度で妥協するなんてことにはならないのでしょうか。

確か、何日か前に、日弁連及び各弁護士会は、国会議員の過半数が修習生への給費に賛成する見込みだというような理由で一斉に会長声明を出したのではないか、と思って1月20日の日弁連会長声明を良く読むとこう書いてあったのでした。

司法修習生に対する給付型の経済的支援(修習手当の創設)が早急に実施されるべきである。

司法修習費用給費制存続緊急対策本部からは「規模感としては全く譲っていない」という説明があったようですが、それならなぜ「給費制の復活」とはっきり言わないのでしょう。言葉が違えば意味も違います。妥結を念頭に新しい言葉を持ち出したのか、との疑念が募るところです。

修習生への給費が実現するのは喜ばしいことですが、修習専念義務が課せられている以上、給費の水準としては同じ拘束時間で労働した場合の対価に見合った代償であるべきですし、司法修習生が修習に取り組むのに十分な金額でなければなりません。それを、万が一にも、お茶を濁す程度の成果で終わることになれば、これまで給費制の復活に向けて活動してきた人々、特に貸与制の下で苦労してもなおそのような活動をしてきた若い先生方の努力に報いたことになりません。

そこで、全国の会員と弁護士会が心と力を合わせて、もっと頑張れ!と執行部を叱咤激励してやらなければなりません。

その意味を込めて、このような議案には賛成しません。

 

予備試験の制度趣旨を踏まえた運用ー受験制限

法科大学院の規模の適正化は、放っておいても志願者が減少することで実現するでしょう。現に次々と法科大学院は廃校に追い込まれています。

そして、教育の質の向上は、関係者に期待するしかありません。更に、法科大学院生への負担の軽減という意味では、飛び級であるとか奨学金の充実であるとか、個別的に手を尽くして頂くしかないと思います。

しかし、予備試験の制度趣旨を踏まえた運用、というのは何を言いたいのでしょう。

そのようなことを言っているところがあったような気がするな、と考えていくと、法科大学院協会の主張に行き着くことになります。法科大学院協会は平成26年11月12日に、「予備試験のあり方に関する意見書」(PDF)を公表しています。

1 「経済的事情等によって法科大学院に進学することができない者」や「十分な社会経験を積んだ者」に限るとする案

2 法科大学院在学生の受験を認めないとする案

3 一定の年齢制限等を設けて、法科大学院の修了者と同等の年齢に達するまでは予備試験の受験を認めないとする案

法科大学院協会は、予備試験の制度趣旨、すなわち「経済的事情や既に実社会で十分な経験を積んでいるなどの理由により法科大学院を経由しない者にも」司法試験を受験する可能性を開く制度であるということを楯に、上記のような制限の導入を主張しています。

すなわち、日弁連執行部案の「制度趣旨を踏まえた運用」とは、そのような制限を設けるべきである、という意味です。

なぜ、日弁連が法科大学院協会に追従するのか全く理解ができません。

予備試験の人気があるのは、法科大学院を中核とするプロセスによる法曹養成制度への不満と不信感の現れに他なりません2。一方で、予備試験は、誰でも受験ができ、幅広く試験がなされ、競争も厳しいという意味で、公平であり信頼できる試験です。先の意見書は我田引水の最たるもので、こんなことを法科大学院協会が自分で言えば集団的エゴイズムの現れでしかないとの非難は免れません3

だから、日弁連が追従するのはおかしいのです。むしろ、法科大学院が法曹養成の中心になりたいなら予備試験のことは気にせずちゃんとやれ!と励ましてやることが、法律家団体としての日弁連の努めではないでしょうか。

そこで、全国の会員と弁護士会が心と力を合わせて、法科大学院に奮起を促せ!と執行部を叱咤激励してやらなければなりません。

その意味を込めて、このような議案には賛成しません。

 

誰が決めたのか?ー合格者1500人

合格者1500人という数字は、法曹養成制度改革推進会議4の平成27年6月30日付「法曹人口の在り方について(検討結果取りまとめ)」(PDF)に基づく目標ということになると思います。

この取りまとめには、次のような指摘があります。

法曹養成制度の実情及び法曹を志望する者の減少その他の事情による影響をも併せ考えると、法曹の輩出規模が現行の法曹養成制度を実施する以前の司法試験合格者数である1,500人程度にまで縮小する事態も想定せざるを得ない。そればかりか、このまま何らの措置も講じなければ、司法試験合格者数が1,500人程度の規模を下回ることになりかねない。

すなわち、司法試験合格者を早期に1500人にする目標は、そもそも日弁連が努力せずとも達成されてしまう可能性があります。それだけ法科大学院への志願者が激減し、そして司法試験の受験者も減少に向かっている実情にあるということです5。そのような局面に至れば、もはや法科大学院の入試も適正な選抜機能を果たせなくなり、司法試験も同様に適正な選抜機能を果たせなくなります。

それで良いのでしょうか?

限度はありますが、相応の競争があることは質の維持の上で必要な要素であり、それが法曹に対する社会の信頼の源泉となっていることを軽視すべきではないと考えます。

あとはもう、前々稿で請求者議案について述べたとおりですから、多くは述べません。

そこで、全国の会員と弁護士会が心と力を合わせて、法曹人口論を真剣に考えよう!と執行部を叱咤激励してやらなければなりません。

その意味を込めて、このような議案には賛成しません。

 

まとめ

日弁連執行部の提案した3項目の議案の内容は、いずれも、

日弁連が主体的に何をしたいのか見えない

という顕著な共通性があります。どうせ日弁連が決議なんかしたって法的効果があるわけじゃないし、現実は推進会議だとか財政当局だとか法科大学院協会だとかの顔色窺ってうまくやっていくしかないでしょ、というあきらめの姿勢がそこから透けて見えてきます。

おかしいことをおかしいと指摘しないで弁護士なんか務まるものですか。

村越会長は、招集請求者たちを批判し、「最も強硬な主張をすればより有利な解決が得られる。法曹人口については、可能な限り少ない数を主張する方がよいのだ。」という考えが間違っているといいます。それは会長の仰るとおり間違いです。私は、そんな三流弁護士の駆け引きだか交渉術みたいな発想で法曹人口論を考えている訳ではありません。他の多くの人々だってそうでしょう。

司法制度改革のもたらした歪みを正し、いかにしてより良い社会をつくることができるか、そして、いかにしてそのための活動を担う良き人材を仲間に迎えることができるか、ということを真剣に考えて提案をしているのです。どうか変な誤解をしないで頂きたいと思います。

そして、この臨時総会で出た結論がどうであろうと、そのための取り組みを続けるべきことに変わりはありません。引き続き、より良い法曹養成制度を実現するための会員相互の真摯な議論を期待し、そして私自身も何かの役に立てれば良いと考えます。

 

 


  1. なお、東京弁護士会の会長も、同会のウェブサイト「新年に誓う」と題するページにて「会員の皆さまには、日弁連執行部提案の議案への賛成と、一部の少数の招集請求者の議案への反対をお願い致します。」「皆さまの良識ある対応をお願いします。」などと呼びかけているが、一部の少数の招集請求者は良識がないと馬鹿にするかの如き主張である。 

  2. 法科大学院協会はプロセスとしての教育課程にこだわり続けているが、転じて見ると、法学研究者には修士課程あるいは博士課程を経ていない者も少なくない。法学研究者の世界においては、特に優れた知識や能力を有する者にはプロセスとしての教育課程は不要であるとでも考えられているのであろうか。 

  3. もちろん、予備試験経由者が法曹となったときに何か資質に問題があるので社会に迷惑が掛かっている、という主張なら別に構わないのである。しかし、法科大学院協会の主張はそうではない(そもそもそんなことは立証できないだろう)。志願者の主な関心が予備試験に行ってしまうと法科大学院への志願者が減ってその存立が維持できなくなるという都合で、自らの在り方を省みようとすることなく予備試験を制限しろと主張しているだけである。 

  4. その構成員は、内閣官房長官、法務大臣、文部科学大臣、総務大臣、財務大臣、経済産業大臣である。その下に設置された顧問会議の人選はこちらのとおり。 

  5. 法科大学院志願者が5万人くらいいれば、司法試験合格者1500人にするということでも良いかもしれないが、もはやそのような状況ではない。 

藤本案を考えるー日弁連臨時総会への対応について

平成28年3月11日午後2時より、弁護士会館にて日本弁護士連合会臨時総会が開催されることになりました。

招集請求をしたグループの提案内容とそれに対する私の考えは、「司法制度改革を問い直すー日弁連臨時総会への対応について」で触れたとおりですが、これに対して第三案を提案するという動きがあります1

ご提案をされたのは大阪弁護士会の藤本一郎先生です。

 

藤本案について

藤本先生といえば、弁護士になってからも着実にキャリアを積み上げてご活躍され、そしてレッツノートを駆使して世界を飛び回り、なおかつ熱烈な広島東洋カープファンでおられるという、私にとっては敬愛すべき先輩です。もう20年前ですが、京都へやってきて右も左も分からなかった新入生の私を構って頂いたことが思い出されます。そんな恩義もあって、藤本先生がご提案をされるということであれば耳を傾けるべきように思えてきます。

その第三案、ここは提案者に敬意を表して藤本案と呼ばせて頂きますが、このような内容です。

(1)司法試験合格者数について,年間1500名以上輩出されるようにし,かつ,現在の年間1800名の水準を十分考慮し,急激な減少をさせない。
(2)法科大学院制度について奨学金をより一層充実させ,予備試験については制度趣旨を踏まえた運用をする。
(3)修習生への経済的支援については,給費制の復活を求める。

さて、上記の決議案と逆の順番になりますが、藤本案について考えてみます。

 

修習手当って何?

給費制については復活を求めるという考え方は一致します。藤本先生の出された檄文から引用します。

もともと給費制の廃止は、年間3000人合格を前提として行われたものでした。1500ー1800名の合格者は、旧司法試験の終わり頃と比べて大差がなく、給費制の復活は不可能ではない筈です。執行部提案は、給費制に代えて新たな給付制度を求めるという現実路線を取ったものであろうと考えますが、日弁連の要請として、はじめからそのような妥協路線で良いのでしょうか。

ところで、日弁連執行部の提案には「修習手当の創設」という言葉が現れます。

これは私は今まで聞いたことがなかったのですが、どうも給費制のころの給付水準は前提としていないようです2。果たして、それで修習専念義務が課される下、修習生が安心して勉学に励むことができるかどうか。多少のお手当を得て要求を一部勝ち取ったというポーズのみ執行部に作られても、修習生の生活の心配を解消するという点について、根本的な解決にはなりません。むしろ、この点は日弁連執行部案が色あせて見えてしまいます。

 

予備試験の実情

次に、法科大学院制度と予備試験の関係についての問題です3。また檄文から引用します。

予備試験の必要性は認めます。ただ、いま予備試験は、大学生や法科大学院生の単なる就活のツールとなっている面が否めません。予備試験を何らの制限も付さないというのは、本来予備試験に合格して頑張って貰いたい方をむしろ予備試験から遠ざけ、「法曹のすその」を狭くしてしまいます。

他方、予備試験を制限するのであれば、いろいろな事情からやむを得ず法科大学院を受けなければならなくなる者も出てきます。特に一層の法科大学院生に対する奨学金の充実は、予備試験の制限の前提条件であるという意味を込めて、前記のとおり議案を提案するものです。

予備試験に合格して頑張ってもらいたい方がどのような人々かと考えてみると、時間がないとか、お金がないとか、遠い4とかいうような都合があってローには行けないが、司法試験に挑戦したいという層ということになるでしょうか。

彼らへの道を開き易くするという意味では、大学生や法科大学院生が、法科大学院の課程をスルーして司法試験を受けられるのは良くないのでしょう。しかし、そのような制限をするならば、大学や法科大学院でなければ学ぶことができないことがあって5、そこを経なければ法曹として決定的な弊害がある、という事情がなければならないと思うのです。

 

法曹の裾野の広さ

むしろ、予備試験の制限は、学力的に優れた受験者層を司法試験から遠ざける強い負のインセンティブになります。私が3回生のころに司法試験の準備もろくにせず法学部の地下の一角でくすぶっていた際、今や巨大ローファームのパートナーとなったある先輩にガツンと釘を刺された言葉は、今も突き刺さっています。

お前、こんな所で何をやってるんだ!早く受からないと生涯収入が減るんだぞ。最初の何年かの収入じゃなくて、最後の何年かが損失になるんだ。それがどれだけ大きな損失になるのかよく考えろ。

すなわち、試験制度がどうであろうともろともせずに立ち向かえるような能力の高い層にとっては、早く資格を取って社会に出られる可能性があることが最大のインセンティブになります。それは、奨学金を充実させるということではカバーできない程度の強力なものです。

かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性を有する法曹6を育てることは大切ですが、正確な法知識とそれに基づく法運用が職業的な基盤となる法曹の職務の性質からすれば、少しでも学力が高い人材を増やしていくことはそれと同じくらいに重視しなければならないことです。

特に、学力の問題についていえば、近時、興味深いデータの分析結果を目にしました。予備試験合格者の方が司法試験の成績が良い傾向にあるようなのですが、そうすると、そもそも予備試験の合格者数が不当に制限されている気がします。予備試験は、司法試験を受けようとする者が法科大学院の課程を修了した者と同等の学識及びその応用能力並びに法律に関する実務の基礎的素養を有するかどうかを判定することを目的とした試験であるのですから(司法試験法5条1項)、この運用の実態であれば司法試験法の明文に反するのではないか、という疑問があります。

「法曹のすその」が広がることは良いことです。ただ、予備試験の制限は「すその」の一部の崩落を招きます。崩落が予想される部分は学力的な最優秀層ということになりそうですが、それは良いのでしょうか。頭の良い人も、苦労をした人も、いずれも含めた幅のある裾野が広がるような法曹界であって欲しいと思います。

以上のような理由により、予備試験に制限を設ける、特に、大学生や法科大学院生は受験できないとか、年齢での制限を設けるのであれば、これはむしろ法曹界への有為な人材の流入を遠ざける帰結になるので、反対です7

せめて、予備試験くらいは、多くの科目について試され、誰にでも公平に受けられる、という意義を失わないようにして欲しい、と思います。

 

司法試験合格者の人数

最も考え方が異なるのは、司法試験合格者の人数に関する点です。

藤本先生が合格者の急激な減少をさせないと主張している理由は、主に次の二点であろうと理解しています。藤本先生のブログから引用いたします。

確かにいま、合格者増の中で、厳しい状況にある弁護士さんが0ではないと思います。また、訴訟件数は減っていると言われます。しかし、競争を忌避し、非訴訟分野・国際分野における法曹の需要の増大に応えずして、弁護士が国民の信頼を勝ち得るでしょうか。

すなわち、まず一点は、非訴訟分野・国際分野における法曹の需要は増大しているという点です。

私は、3つの法科大学院で年間5コマ教えています。「3000人合格」時代を夢見てこの世界を志願した者に、1800人合格という門戸の狭め方(現状)でも頭が痛いのに、また、政府も昨年1500人「以上」とするとりまとめ(=1500は下限、これよりもう減らさない)をしたというのに、更に「早期に1500人」(=1500は上限、更に減らすことになりえる)とする案であれば、世の中にどう映るでしょうか。厳しい時代ではあります。でも、後輩がさらに合格枠が狭くなることで心配するような世界にしたくないです。

そして、もう一点が、これから法曹を目指す後輩達を心配させないようにして欲しいという点です。この世界を目指す人たちを失望させて別の進路に行かれてしまうようなことがあってはならない、ということになろうかと思います。

 

法曹の需要は増えているのか

まず、法曹の需要が増大しているかどうか、という点について考えます。

訴訟事件は減少傾向にあります。単に過払い金の事件が減ったという以上に減っています。破産事件も減っています。それで、弁護士が増えたから訴訟になる事件や法的整理となる事件が減ったのかとも思ったのですが、何故かそういうことでもないようで、訴訟外で処理する事件が増えているわけでもない雰囲気を感じるのです。おそらく大多数の弁護士の実感はそうでしょう。

そうすると、需要が増大していると捉えている藤本先生の見ている世界と、私が見聞きする世界とは、全く別であるとの感を持ちました。おそらく、弁護士需要の認識というのは、各自の属する世界で大きく変わるものなのかもしれません。この点をめぐって言い争っていてもおそらく生産的な議論にならないのでしょう。

私自身の認識としては、全体的な弁護士への需要は変わっていないかやや減っているかな、という印象です。ただ、それでいて弁護士の人数自体は激増していますから、一人が扱う仕事量は減っている、ということは否定できません8

とはいえ、例えば田舎の我が街の周りであっても、地元企業が海外進出するというような話はしばしば見聞きします。しかし、渉外的な仕事が私に舞い込んでくることはほとんどありません。それはおそらく、営業が足りないので企業とのチャネルがなさ過ぎる、ということと、渉外的な仕事を扱う能力を身につけていない、という事情に大きく起因します。そりゃあお前さんの努力不足だよ、といわれればそのような批判には甘んじても仕方がありません。

そこで、ただ単に、需要が減少しているからどうにかしろ、と声高に叫んでいれば良い訳ではなさそうです。とはいえ、今から語学を学ぶのかとか、留学して来るのか、となると現実の困難はあります。ただ、私自身も、できる範囲でどのような需要があるのか敏感になっておく必要がある、ということは藤本案を考えていて思ったことです。

 

後輩達を心配させるな

藤本先生はロースクールで教えて若い人を間近に見ておられるので、このような思いを強く持つのだと思います。後輩への配慮という点は確かに大切なことです。

ただ、私としては、この道を志す若い方々には、まず学力の面でしっかり競って欲しいという思いがあります。制度の変動に関わらず、依然身につけるべき法律家としての基本的な学力は何か、ということを良く考えて鍛錬して欲しいと思うのです。その観点からは、あまり関門が広くなりすぎると問題かと思います。特に志願者が減っていく傾向にあるということになると、尚更です。

この点に関していえば、私も既存の法曹として、弁護士業界の悪いところばっかりアピールして後輩達の不安を煽っているような気もしないではありません。そうだとすれば大変申し訳ないです。しかし、本当は、野村謙二郎選手の引退スピーチ9のように、仕事の楽しさをアピールしたいという思いを多少持ち合わせてはいるのですが。

言い訳をすると、そこは田舎暮らしの悲哀もあって、若い人たちにアピールをする機会が乏しいことはあります。強いて言えば、うちの岩田明子弁護士が北大のロースクールの講義にゲストで呼ばれて過疎地の弁護士について話をして来るだとか、あるいは、帯広に選択型修習で修習生が来れば出来る限り手厚くもてなす、という程度のことはあるのですが、業務の魅力を積極的にアピールするには至っておりません。そんなことだけで後輩達の心配がなくなる訳ではありませんが、この仕事に魅力を見出して頂くために何かできないだろうか、とは思ってはいます10

 

まとめ

以上、人数論については積極的な反論というよりは自分の反省を書き連ねているだけで話が逸れていっている感がありますが、なお、私の基本的な考え方としては、予備試験の制限には反対ですし、司法試験合格者の減員を行わないようにするという点については、現下の情勢では賛同できないということではあります。法曹需要の問題もさることながら、志願者の学力の低下を懸念する側面が強いです。

しかし、藤本案を吟味することには意義があります。

特に、文字通り世界を股に掛けて飛び回っている日々多忙な藤本先生が、法曹養成の問題を大変案じて、実際に行動しているという姿を見ると、お世辞ではなく最大級の敬意を抱かざるを得ません。そのように既存の法曹が真に「この国のかたち」を考えて活動することが大切だ、ということを体現しているかの如く見えます。

法曹養成の問題について、既存の法曹があきらめることなく議論を続けて、志ある良い人材を一人でも多くこの世界に招くことができるようになることを願いたいと思います。

 

 


  1. 日弁連執行部の提案する案もあるが、FAXで送りつけられてきたものを読んだ限り、検討に値しないように思えた。とはいえ、それについては別稿にて批判をすることとしたい。 

  2. 日弁連理事会では、規模感としては全く譲っていないといった説明はされているようだが、どうであろうか。実際、懸念を示している理事もいたようである。 

  3. 2014年11月12日の法科大学院協会「予備試験のあり方に関する意見書」(PDF)も、この点について藤本案と同様の見解である。同意見書を読んでみたが、我田引水とはまさにこのことだとの感想しか持たなかった。どうしたら法科大学院は社会のために役立つことができるのか、より建設的な議論と創意工夫を期待したい。 

  4. 例えば、帯広市には帯広畜産大学という優れた大学があるが、法学部もなければ法科大学院もない(法学研究者はいる)。北海道の法科大学院は、北大と北海学園大の2校のみでいずれも札幌市にあるから、この辺に住んでいたら事実上司法試験の受験は困難である。だが、昔は大学の教養課程の単位を取っていれば旧司法試験二次試験の受験ができたから、中大の通信制などで教養の単位を取って短答式試験から受験できたし、実際それで弁護士になっている例を聞いたことがある。 

  5. 私自身は法学部の授業に出ず、「法学部の授業が試験準備のために崩壊している。何とかしなければならない。」と言われるような状況に多大な関与をしたが、藤本先生の講義であれば進んで受講したい。 

  6. 平成12年4月25日司法制度改革審議会「法曹養成制度の在り方に関する審議の状況と今後の審議の進め方について」 

  7. 更にいえば、憲法上の問題が生じると考えられる。おそらく、身分で区切っても、年齢で区切っても、法科大学院が十分な教育的成果を上げられているといえないのであれば、不合理な差別として違憲ではないか。 

  8. だからといって、暇だという訳ではない。 

  9. 「今日集まっている子供たち、野球はいいもんだぞ!野球は楽しいぞ!」 

  10. もっとも、経済的な問題について率直な話をしてしまうと、若い人は地方での弁護士業務への興味が減ずるかもしれない。それを人の生き方の問題として割り切って考えてもらえるであろうか。近年、衝撃的だったのは、超が三つくらい付くような超一流企業のインハウスの後輩が年収○○○○万円もらっていたという話を聞いて、腰を抜かしたことである。もちろん、そのような企業に勤めていると好き勝手にツイートしているような自由はない、ということのようである。 

司法制度改革を問い直す-日弁連臨時総会への対応について

平成28年3月11日午後2時より、弁護士会館にて日本弁護士連合会臨時総会が開催されることになりました。

招集請求者が提案をしたこの会議の目的たる事項は次のとおりです1

司法試験合格者数、予備試験、給費制に関する日弁連の基本方針を、以下の通り決議する件
1.司法試験の年間合格者数を直ちに1500人にし、可及的速やかに1000人以下にすることを求める。
2.予備試験について、受験制限や合格者数制限など一切の制限をしないよう求める。
3.司法修習生に対する給費制を復活させるよう求める。

 

当職はこれらの決議案について反対する理由がありません。

むしろ、賛成する理由であれば見出すことができるので、今回の臨時総会の招集を請求しました。そして、請求をしておきながら出席しないという訳にはいかないでしょうから、当日は弁護士会館に出向いて上記の決議案に対し賛成票を投じて来るつもりでいます2

以下、決議案の順序とは逆になりますが、それぞれ理由を述べます。

 

給費制の復活について

司法修習生には、生活の不安を与えることなく勉強してもらえるようにしなければ、誰もこの業界に入ってこなくなります。そして、法曹養成という観点もさることながら、入り口のところでどのような人材を獲得できるかという問題は、弁護士業界だけに止まらず、裁判所及び検察庁の人材構成を考えるにあたっても切実な問題です3

そもそも、修習専念義務を課しておきながらその間の代償がないとするならば(生活費相当額の貸与はされますが、その本質は借金です)、重大な人権侵害をもたらす制度であるといえます4

以上の理由で、給費制の復活を求めるという決議案が出るならば、賛成以外の意思表示をすることはおよそ考えられません。

 

予備試験の在り方について

この問題に関しては、結局、法科大学院を修了したのと同等の素養があることを試験で測ることができるという前提に立つ限りは、形式的に法科大学院を修了したかどうかという要件に拘らずにどんどん先に行かせてやった方が、その人のためにも社会のためにもなりうる、ということに尽きると考えています5

従いまして、予備試験について一切の制限をしない、という決議案が出るならば、これも賛成する他ないものと考えています。

 

折角作ったロースクールをどうするのか?

なお、予備試験の在り方は法科大学院と密接に関係することですが、法科大学院をどうするのかという点は割と自分の中では結論が着かずに逡巡していたところではありました。

少なくとも、法科大学院が出来る以前の昔の京大法学部の大学院なんかでいえば、「お前みたいな受験勉強レベルで音を上げてるシロウトは近づくな」的な、極めて学究的な雰囲気が漂っていたように感じられたのです。私としては、訳の分からん低レベルな学生を院に突っ込んで大学院の研究機能あるいは研究者養成機能に支障をきたしてはならないだろうから、むしろ大学院の在り方としてはそれで良いし、大学院とはそうあるべきものだ、と考えていました6

ただ、一方で、私のような司法浪人生は学問的な興味関心も程々に、法解釈や試験そのものの技術的な側面の方に強く関心を持って机に向かっていたのも事実です7

そのような意味では、法科大学院が設立されて、法学部よりも先に学ぶ場が広がったということは良いことであるとは思うのです。しかし、これを司法試験の受験要件と完全にひも付けてしまえばそれは問題が生じるところで、悪い言い方をすれば資格商法であるとの批判は避けられないのであろう8、というように考えるに至りました。

今後の法科大学院には、法科大学院でなければ学ぶことのできないことが存在するのだということを示して頂けるよう、より一層の工夫と努力を期待するほかないのであろうと考えています。

 

司法試験の年間合格者数を何人にするかという問題

司法試験の合格者数については、1000人という数字を示した声明や決議が既に各地の弁護士会でなされていることでもありますから、今更この点への反対が多数であるとは思いません9。ただ、司法試験の合格者数を何人にするかというのはとても難しい問題です。

改めて考えてみることにします。

 

今の司法試験って難しくないんでしょ?

このような質問をされたことのある弁護士も最近は少なくないことでしょう。そう聞かれた場合には「人数は増えましたが…」と答えることはありますが、本当に難しくなくなったのかは分かりません。今でも、司法試験合格者は相応の努力をしていることでしょう10

さて、弁護士法72条は、法律事務を弁護士の独占業務として定めていますが、この立法趣旨は、本来的には非弁護士の活動による弊害の排除、ということにあります11

しかし、弁護士が法律事務をなぜ独占してよいのか、と改めて考えてみると、根本的には、法曹資格を得るために難しい試験を受け、そこで公正に能力の選抜がなされ12、司法修習という特殊な養成方法を経ているということが、無視できない正統性の根拠として存在しています13。それが、仮に、費用さえ出せば司法試験が受けられる地位(=法科大学院修了)に達しうるだとか、更には司法試験も緩やかに合格できてしまう、ということだと、この意味での法曹資格の正統性というのは著しく低下します。

それで、増加する法曹資格者の能力の維持向上を適切に図っていくために法科大学院を設立した訳ですが14、法曹志望者が減少しすぎて当てが外れてしまったので、法科大学院入試段階での選抜が適正に機能しなくなるという問題が大きく浮かび上がってくることになります15。すなわち、現状では、定員割れの法科大学院が続出しているように、学校を選びさえしなければ、容易にロースクールには入れる状況になってしまっています。

法科大学院の入り口でも大して競争がなく、法科大学院内のプロセスによる教育の成果も不明確で、さらに司法試験の倍率も低下してきた、ということになると法曹志願者の能力が平均的に鍛えられません。そうすると、法科大学院段階での選抜には期待ができない以上、司法試験そのものの選抜機能に期待するしかありません。だからこそ、司法試験合格者の減員の幅を大きくすべきである、ということになります。

「今の司法試験って難しくないんでしょ?」という問い掛けは、損なわれつつある法曹の信頼への評価の現れとも感じます。同様に、「弁護士さんも増えて生活が大変なんですね」というのもしばしば耳にするところですが、これも結局、だから変な事件を扱ったり不祥事を起こす弁護士が増えてるんでしょ?、という含意のある問い掛けに聞こえます。全く余計なお世話であると感じる一方、日頃からそんなことをいわれるようになってしまったのは誠に残念なことです。

 

食っていけないとの主張

司法試験合格者の減員を求める理由として、個々の弁護士の生活を成り立たせるようにせよ、という点が主張されることがあります。

ただ、そもそも、司法試験に合格したところで、ダメな人はどんな状況で何をやったってダメなこともあります。弁護士の増加率が減少することで、食える弁護士が増えるかどうかは分かりません。それは社会的な需要にも左右されます16。そうしてみれば、弁護士団体の中の人が新規参入者の制限を唱えれば、単なる集団的エゴイズムの発露だとの見方はあり得るでしょう。そして、その理由が単に既存の弁護士が食えなくなっているから、というのであればそういわれても仕方はありません17

既存の弁護士も、切磋琢磨して能力に磨きをかけることや、創意工夫して業務に当たることが大いに必要であるということに関しては、新規参入者が増えるか減るかといった事象に影響されるべきでないことには変わりありません18

 

ノブレスでなければオブリージュもない

しかし、弁護士以外の人々のための利益にならない状況が生じているという問題に直面した場合には、それをどのように考えるべきなのか、ということは弁護士業界の中の人であっても依然として論じなければならない問題として残ります。具体的には、弁護士の果たしている役割、とりわけ公益的な業務を誰がどのように担っていくのか、という問題のことです。

例えば、国選弁護や民事法律扶助業務について考えてみます。その報酬の基準は低廉です。どの程度低廉かといえば、他の仕事をやった方がマシだという水準です。あるいは、弁護修習で司法修習生を指導するのも基本的には無償です。日弁連及び各弁護士会は弁護士法により設立が義務づけられている法人ですが19、その法人の活動を支える個々の会員への経済的な見返りは一般的にはありません。

それでもどうして成り立っていたかといえば、弁護士の生活に支障はなかったからだというのは否定しがたいところはあります。相応の生活を維持した上でならば、税金を払う以外にも社会的な還元をすべきである、ということは多くの人々が是認することではあるでしょう。

では、全ての弁護士が、自らの利益だけを考え、生き残りをかけて行動を決定すればどうなるでしょうか20。国選弁護や法律扶助の受け手はなくなり、法テラスも崩壊することでしょう。司法修習も教える人がいなくなりますし、弁護士会の活動も止まります。

さて、その先にはどのような世界が見えてくるのでしょう。お金のない人は刑事も民事も問わずろくな弁護が受けられません。指導を受けられない新人弁護士が量産されます。弁護士自治も機能しないとなれば、権力に抗う人や活動を擁護している弁護士は容易に資格を剥奪されるでしょう。他の国では弁護士がしばしば弾圧の対象になっていると聞きます。昔の日本だってそうでした。このような世界の出現こそが、まさに、司法制度改革の成果です。

残念ながら、弁護士が公益業務に従事したところで生活を維持できる保障はない環境になってしまいました21。趣味でやりますという人でもいない限り、適切な費用弁償を前提とすることなく22、弁護士に公益的な活動を強いるのはもう無理です。ノブレス・オブリージュという言葉23がありますが、もはや弁護士はノブレスでもないからオブリージュもない、というようにいえば構造としては分かりやすいでしょう。

弁護士の業界に人が増え、そのような雰囲気が蔓延すればするほど、もはやその流れを止めることは出来なくなってきます。その結果が今の状況です。

弁護士の増員は、このような個々の弁護士の善意から成り立つ公益的な事業のサイクルを破壊することに成功しました。そもそも、単なる善意で成り立つ制度が持続することは困難です。公益的な業務のまともな引き受け手は、絶滅に向かう一方でしょう。そうなれば、法の支配を社会の隅々まで24なんてスローガンは、絵に描いた餅です。今のところは、文句を言う人も、黙々とやっている人もいますが、皆まだ我慢しながらやっているというところだと思うのです。そろそろ爆発寸前ではないでしょうか。

 

日々増すいらだち

私自身の雑感を述べます。確かに、10年前に比べて事件が減っているように感じる一方、弁護士の数は増えましたし、自分の所得も10年前より減ってはいます。ただ、そんなことは私の営業不足に起因するだけのことだから別に良いのです。所得や出世のみに囚われて、今更、公務員になれば良かっただとか、大企業に入れば良かっただとか泣き言をいうつもりもありません。私は生まれたところ(東京)、育ったところ(埼玉)、学んだところ(京都)をいずれも離れて、好きなところに住んで好きな仕事をやっているのですから、その実践に悔いはないです。

それでも、帯広という中央に遠く離れた場所からこの国の姿を眺めていると、いらだちを感じることがあります25。そのいらだちは日々増すばかりです。それは、弁護士が増えても社会は良くなっているようには見えず、むしろ、社会の少なからぬ人々が迷惑するようなおかしな現象が度々生じるからです。

その原因は何か。おかしな弁護士が増えたし、既存の弁護士もおかしくなったからです。カネにならない仕事はしない、信じられない高額報酬を要求する26、挙げ句には人のお金を横領する、などといった様々な病理的な事象が日々生じているわけです27。いずれにしても共通するのは、

弁護士が自分の生き残りに関することだけしか考えなくなった

ということです28

助けを求める他者のことを、帰属する弁護士会のことを、そして「この国のかたち」29のことを、いずれも良く考えて、そのための実践を行うという視野と精神を失った弁護士が実に増えてきてしまっているのではないか30、ということが今や大いなる懸念として感じられることです31。その対策としてロースクールで法曹倫理を教えるようになったというだけでは、やはり何かが足りないのです。その病巣はどこにあるのか、ということは我々自身の問題として考えなければならないことではないか、と思います。

 

まとめ

公正な選抜を経て能力を培った人材であることが法曹への信頼の源泉であるとするならば、入り口での競争を強化する方向の政策には意義があります。また、人員が増加した結果、公益的な活動に衰退をもたらすメカニズムが存在しているとすれば、その悪循環を一回絶ち切ろうとするための措置は、長い目で見て是認される余地があります。

あとは人数をどう決めるかという観点ですが、この点は既に多くの弁護士会で議論されているとおりかと思います。自然減の補充、司法修習を適正に行える限度、法曹への需要あるいは志願者の動向といった色々の要因がありますが、1500人ではまだまだ多く、1000人にすべきであるとの結論はおかしくない、というところに落ち着くのではないでしょうか。

以上、1000人に絞れば問題が全て解決するという性質の問題ではありませんが、合格者1000人以下にまで減少させよとの決議を行うことは、司法制度改革によるひどい歪みを世に問うという大きな意義がある32、というのが結論です。

時代に応じて司法の在り方も変わっていくことは否定できません。しかし、昨今の様々な弊害を目の当たりにして、いわゆる司法制度改革という言葉で表されるような司法制度の変容に対しては、その動きを一旦止めて、皆で素直に問題点を洗い直して考えてみなきゃならんこともあるのではなかろうか、ということを思います。今回の臨時総会に意義を見出すとすればまさにその点を明らかにすることであり、掲げられた議案はそのために検討が必要不可欠なテーマです。

また、そのようなテーマの重さから言えば、この決議案を提案した会員達の意見が全く顧みられないということになるのだとすれば、「人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはない」33といった旧来の価値観はもはや消え失せたのだ、という現実を受け止めるべき契機とならざるを得ないのでしょう。もはや、今では「自らの思うがままに仕事をしなければ、法律家も生き残ることはない」という残酷な世界へとパラダイムシフトが生じているのだ、と理解しなければならないということなのかもしれません。

 

 


  1. その後、日弁連執行部から、大要、1.司法試験合格者数を早期に1500人にする、2.予備試験について制度趣旨を踏まえた運用とする、3.司法修習について給費の実現・修習手当の創設を行う、との議案が提出されることになった。修習手当なるものは従前の給費同様の給付を前提としたものか不明であるが、給費の実現という点以外、このような内容の議案は、司法制度改革による社会の歪みを直視することのないまま、概ね現状維持を図ることを是認するものであるとしか評価しようがないものである。 

  2. 但し、所属弁護士会が当該議案に賛成の機関決定をするなら、その限りではない。 

  3. 以前、「司法修習給費制の復活を求める」という記事で触れたとおりである。 

  4. 最高裁判所も貸与制の制度設計に関与している立場である以上、これを訴訟に訴えたとしても修習生の救済は期待できない。その意味でも、法曹三者のうち弁護士が率先して社会的な取り組みを行わない限り改善され得ない事項である。 

  5. この問題も、以前、「法曹養成と機会損失」という記事で触れたとおりである 

  6. もっとも、近年は様相を異にする。京都大学大学院法学研究科のウェブサイトによると「ところが、法科大学院修了者が陸続と現れた後に明らかになったことは、法科大学院を修了後に大学院後期3年の課程に進学する者は実際には全国的に皆無に近いという現実であった。」という。法学系大学院における研究者養成機能すら機能不全を起こしつつあるという現状は、将来的に見て実に懸念をすべき問題でもあるし、残念でならない。 

  7. そのことは、法学部を卒業させてもらえなかった時に少し反省し、今となっても学問的素養の不足を痛感するので大いに反省している。 

  8. 法科大学院が優れた教育的成果をもたらしたことが示されないにも関わらず、制度上司法試験受験資格の前提となっているという理由のみで法科大学院を維持すべきというのであれば、単に資格取得を人質に取る主張でしかない。 

  9. 既に、18の単位会にて1000人という数字を示した決議がなされている。例えば、札幌弁護士会においては、2011年11月29日の臨時総会において「法曹人口と法曹養成制度に関する決議」がなされており、その中では「年間1000人程度を目標に司法試験合格者数を段階的に減少させ、その実施状況等を検証しつつ、さらに適正な合格者数を検討する」ということが決議されている。 

  10. 私が司法試験に合格したのは合格者が約1000人のころであったから、それ以前の合格者から見れば物足りないといわれても仕方がない立場である。しかも、当時は3回目以内の受験者は論文試験の合格枠が優遇されており、私も3回目の受験で好ましいとはいえない科目別の成績で論文試験に合格していることを思えば、このような不公正な制度の恩恵を受けた可能性もある(但し論文試験の順位は開示されない)。そうだとすれば、従前よりも、あるいは平均よりも、早く試験に通してもらえた分だけ公益的な問題を一生懸命考えろ、ということは本来的には背負っていくべき課題なのであろう、と思う。 

  11. 最高裁判所昭和46年7月14日大法廷判決(PDF) 

  12. 昨今の司法試験問題漏洩事件への反応を見れば、司法試験において不公正な選抜がなされることに対する社会の姿勢は極めて厳しい、ということを実感させられる。 

  13. 弁護士法5条及び6条が認める特例は資格者と同等の素養があると認めてよい場合であるし、給源としてはごく僅かである。 

  14. 法科大学院の教育と司法試験等との連携等に関する法律1条には「高度の専門的な能力及び優れた資質を有する多数の法曹の養成を図り、もって司法制度を支える人的体制の充実強化に資すること」が目的として掲げられている。 

  15. 法科大学院の教育と司法試験等との連携等に関する法律2条1号に「入学者の適性の適確な評価及び多様性の確保に配慮した公平な入学者選抜を行い」とあるように、法科大学院入試段階での選抜は、プロセスによる法曹養成の過程において重要な機能を果たすことが前提とされていたのである。 

  16. 今回の臨時総会に当たり、敬愛する先輩である藤本一郎弁護士が独自の第三案の提案を試みている。藤本先生自身は、非訴訟分野や国際分野での弁護士の需要が増大していると認識されているが、当職が見聞きする世界は全く別である。おそらく、弁護士需要の認識というのは、各自の属する世界で大きく変わるものなのであろう。ただ、そのようなギャップが存在するのだとすれば、その原因をよく分析検討した上で、弁護士の需要というものへの共通の認識を得る必要があるようには思う。その増大する需要を充足するような活動が当職の如き田舎の弁護士に現実になし得るのかどうかは、また別ではあるが。 

  17. ただ、この点も、今後、司法修習が貸与制となった世代が現実に貸与金の償還を求められるようになった時点で、償還が困難になるような弁護士が多数生じるといった事態が生ずるとなれば話は別である。彼らに公益的な業務を担わせてタダ働きを求めるような権利は、他の弁護士にも、あるいは一般の国民にもない、といわなければならない。 

  18. 司法試験においては公正な競争があるべきだと主張するのであれば、当然のことながら、弁護士実務に入った後もまた公正な競争を続けることが要請されて然るべきである、ということになろう。 

  19. 弁護士法45条1項、同32条 

  20. そのような状況がいかなる帰結を招くかということについて、以前、「新時代の弁護士マーケティング論」という記事にて触れた。もっとも、その記事の内容は、概ね現時点で実際に発生している事象であるから、既に相当な弊害が生じているのだということを認識すべきである。 

  21. 例えば、弁護士の営業活動の在り方を見ても、かつては国選事件や扶助事件などの小さな事件を地道にこなして名前を売れ、と言われたものであるし、日弁連や各単位会の要職を務めることで名が広まるという効果はあったかもしれない。しかし、弁護士の広告規制の緩和はそのような環境に変化をもたらした。今や、悪名は無名に勝る、という時代なのである。 

  22. その意味では、会務その他の公益的な活動に費用を十分に支弁する枠組みを構築するという対策はあり得る。例えば、弁護士会内の問題だけであれば、その役職者に手当を支給するといった方法は検討されよう。しかし、他方、法テラスの扱う国選弁護業務や民事法律扶助業務の報酬額が不十分な状況は、依然として改善されないままであるし、「悪いことをした奴の弁護なんて必要ない」「カネのない人が弁護士に頼めないのは自己責任である」といった国民的な意識が根本に残っている限りは、その改善の見通しは乏しいであろう。 

  23. ノブレス・オブリージュという言葉にリンクを貼ると比較的多くの方が参照されるが、私自身は、記憶違いでなければ大学1回生の「法学入門1」の講義で指定された教科書(佐藤幸治・鈴木茂嗣・田中成明・前田達明「法律学入門」〔有斐閣、1994〕)により初めて知ったと思う。今にして思えば、その著者の中には司法制度改革を推進する方々も居られたのである。 

  24. しばしば耳にするこの言い回しは、平成13年6月12日の久保井一匡日弁連会長による「司法制度改革審議会の最終意見の公表にあたって(会長声明)」に、「法曹の量と質の拡充を目指して、法曹人口の拡大、裁判所・検察庁の人的体制の充実、ならびに新しい時代にふさわしい法曹の質を確保するための法科大学院構想を提案されたことは、社会の隅々まで法の支配を確立していくことに積極的に取り組むことを企図されたものとして大きな意義があります」という形で現れている。今にして思えば、日弁連は将来を見誤ったというしかない。大変僭越であることを承知で申し上げれば、見通しを誤ったまま司法制度改革の流れに賛同してしまった日弁連執行部の方々には、幾ばくかの贖罪寄付でもされることをご検討賜りたいものである。 

  25. もっとも、釧路弁護士会は、弁護士の増員による恩恵を受けた。例えば、弁護士が不足していた地域にも公設事務所を設置できたし、被疑者国選制度の運用も可能となった。私が登録した十数年前に比べて当会の会員数は2.5倍となったが、なお会員の間では「全員野球」という言葉が事ある毎に使われるが如く、皆で会務を支える、社会問題への取り組みに一致して協力する、といった気風が十分に残っている。従って、司法制度改革の負の影響は小さい。しかし、一歩外へ出れば大変なことになっているのを座視していて良いのか、ということである。 

  26. これは弁護士だけの問題に限らず、民事法系の研究者が意見書を執筆する際の謝金の金額が数百万円にも達するという話を耳にすることがある。意見書執筆の労力に対する謝礼が全く必要ないとは言わないが、限度を超えれば、カネで学説が曲げられているとの批判が生じてもやむを得ないであろう。 

  27. これらの問題に対しては、国選や扶助の予算を十分に獲得する、報酬の上限規制を設ける、預り金の第三者預託を義務化する、といった個別の解決策はある。だが、これらの対策を講じたとしても弁護士が自分の生き残りに関することだけしか考えなくなったという問題の根本が変わらない限り、次々と社会的な問題が引き起こされる事態は変わらない。また、仮に個別の対策を図ることができるとしても、前述のとおり司法試験による選抜の果たす役割の重さを考えれば、なお単純に従前の増員策を継続して良いということにはならない。 

  28. なお、病理的な現象のうちカネに関わらない例として、弁護士資格を有する政治家が、とても司法試験に合格した経歴があるとは思えないような憲法論を展開したり、法律上の主張を行うことがしばしば見られるという事象を挙げることができる。このような現象も、結局、あるべき法の存在を無視して自らの思うがままの主張を行ってでも政治的地位を温存したい、という姿勢の表れである。 

  29. 平成13年6月12日の司法制度改革審議会意見書に「法の精神、法の支配がこの国の血肉と化し、『この国のかたち』となるために、一体何をなさなければならないのか」という表現がある。平成9年12月3日の行政改革会議最終報告を見ると、これは司馬遼太郎の著作のタイトルに由来するようである。司法制度改革により歪んだ「この国のかたち」を見て、彼は草葉の陰で何を思うのであろうか。 

  30. 司法制度改革は、「この国のかたち」をデザインしようとして、結果、「この国のかたち」にまで考えが及ばなくなった弁護士を多数生み出すことになったのである。 

  31. 弁護士の業務への魅力が低下することは弁護士の業界のみならず、司法全体の問題となる。その例として、かつてに比べ裁判官を辞める人員が徐々に減少している傾向があるとの指摘がある(武本夕香子弁護士「日弁連の課題と明日の司法」23頁〔PDF〕)。確かに、退職後に弁護士になっても生活が成り立つ見通しが乏しければ裁判官の職に留まらざるを得ず、結果的に裁判所内での統制が強化される契機となる。そのようなことになれば、司法権の独立あるいは裁判官の職権行使の独立を貫徹するという観点から見ても脅威となろう(なお、ツイッター上で白ブリーフ姿の判事を見かけることがあるが、かの判事がそのような表現行為をできるのは、彼が著作を多数ヒットさせるという特殊能力を有しており、万が一退官に追い込まれても生活に支障がないという自信があるからではないか。)。 

  32. 日弁連が決議をしたところで、法的権限がないという批判はあり得るところであろう。しかし、従前からも各単位会では同様の声明ないし決議は次々となされているところなのであって、そのようなことは承知の上である。日弁連においても司法制度改革の在り方を検証し、問題があれば改善を求めて提言をし続けるべきことは当然である。そして、その中で、弁護士の増員に伴い生じた諸々の社会的問題への問い掛けも継続していかなければならない。 

  33. 高橋宏志「成仏」法学教室307号巻頭言(2006年)