ブックレビュー:『変貌する法科大学院と弁護士過剰社会』

 

はじめに

法科大学院、法テラス、裁判員裁判・・・司法制度改革に対してどのような評価をするかは、なお議論がある。

ただ、全く問題なくうまく行っていっていると言い切れる人はいないと思う。万が一にもそのような人がいるとすれば、清々しいほど超然的である。

本書には、司法制度改革のうちでも、特に、法科大学院と法曹人口の問題についての論考がまとめられている。

 

ドグマチックな法科大学院

まず、本書では、法科大学院の制度設計について論じている。そこで目を引くのが、法科大学院には現実を無視した数々のドグマが存在していた、という指摘である。

ざっと読んでみても、司法試験敵視ドグマ、起案敵視ドグマ、双方向ドグマ、幅広い知識と教養のドグマ、理論と実務の架橋ドグマ・・・等の指摘がある。嗚呼、もう、これだけでも何か大変なことになってるなあという想像がつきそうである。

さすがに、成果が上がってないのでマズいということが認識されてきたのか、現在は修正が図られつつあるということも本書では述べられている。

しかし、一体今まで何をやっていたのだろうか。

法律学の修得はなかなか難しいと思うのだが、適した方法は色々とあり得る(より端的にいえば予備校をバカにできない)。だから、そのような方法に何としても拘らなければならない、ということではなかったんじゃないかと思うのである。

 

法曹人口問題のこと

法曹人口が増えたことで法曹の質が低下している、という話については良く耳にするが、本書でもいくつか具体的なエピソードが紹介されている。

質が低下しているかどうかということについてはなかなか断言しづらい。当職自身も、人のことが言えるほど高品質かどうかといえば、あやしい。

ただ、事件が解決しづらくなっている、というような雰囲気は感じることがある。その一因として、本書でも指摘のあるとおり、依頼者への従属的傾向が強くなっているということはあるかもしれない。それ以外にも、問題事例を見かける機会は、少なくなくなってきたように思う。

さすがに、法曹三者のいずれを問わず、法律家が法律判断を間違えるような事案が頻発するといった事態にはならないでほしい、と祈るような思いでいる。

 

本書の結論に対する意見

本書の結論は、「法科大学院の入学総定員数は司法試験の合格者数から逆算し、法科大学院に入学すればよほどのことがないかぎり司法試験にも合格できるようにする」(282頁)というものである。

また、そのための抜本的改革ができなければ、「司法試験の受験資格要件から法科大学院の修了を外すことを検討するしか方法はない」(285頁)とする。

この考え方に対しては、概ね同意するところである。

概ね、というのは、抜本的改革は困難に見えるからである。例えば、ここに来て、法学部+法科大学院での5年一貫コースを設けるといった苦し紛れの構想が繰り出されたが、なお制度が迷走していることを象徴しているようである。

本当に法科大学院に魅力があれば、司法試験の受験資格要件に関わりなく存立できるはずである。いや、そうでなければならないのである。一部の法科大学院は先導的法科大学院(LL7)と称しているが、それも生き残りをかけての活動の一環ということなのであろう(個人的には、京大が徒党を組まされているのが大変気に入らない。)。

結局、法学部では学び足りなかった人や非法学部出身者のために、法科大学院はあっても良いと思う。一方で、司法試験は自由に受けられるようにしてその時点での能力に応じて選抜する、ということで良いのではないか。当職はそのような意見を持っている。

 

 

ブックレビュー:『依頼者見舞金ー国際的未来志向的視野で考える』

 

はじめに

今年3月の総本山での臨時総会で、依頼者見舞金制度の導入が決議された。

個人的にはこの制度の導入に反対していたので、まずは以前の記事を紹介しておきたい(「依頼者見舞金の展望:アメリカの状況を踏まえて」)。

臨時総会での決議がなされた翌月に出版されたのがこの本である。内容としては、2014年に開催された法曹倫理国際シンポジウムの記録であるが、依頼者見舞金制度導入のタイミングを踏まえて慌ただしく出版された印象を受ける。

 

感想

本書のハイライトは、須網教授と弁護士のディスカッションが噛み合っていない場面である(59頁以下)。

須網教授は、隣接士業と重なる弁護士業務が行政の監督を受けないのはおかしいとか、問題会員への弁護士会の指導・監督が足りないといった趣旨の指摘をされる。司会者は「いろいろプロボカティブな質問」と取り繕ってはいるが、いささかトンチンカンな問題提起である。

それで、弁護士側から説明がなされると、「私は、ちょっと実務があまりよく分からないので」だとか「ちょっともしかすると、趣旨が伝わらなかったかもしれないのですけど」などと始まる。本当に大丈夫かという感じである。

石田准教授の論考への意見は以前にも書いた。最近も寄稿を見掛けたが1、アメリカと同様の制度を導入することの単純明快な説明に終始している。

今も横領被害は起きる中、国際的やら未来志向だとか悦に入っている場合ではない。一体何のシンポをやっていたのだろう。

 

法曹倫理の課題

ところで、ちょっと実務があまり分からないなんて仰っている須網先生、別の所では給費制復活運動を目の敵にして弁護士会を罵倒している2。大変正直な人なのだと思う。

こうなってくると、理論と実務の架橋どころではない。相互不信の根深さは、法曹養成制度に暗い影を落としている。

つまらないからなのか学生には評判が悪い科目であるようにも聞こえてくるが、法曹倫理を教えないならロースクールはなくてもよい。法曹倫理の理解は道を踏み外さないために不可欠なだけに、机上でもしっかり身に付けて実務に出ていく人が増えることを祈っている。

 

 


  1. 石田京子・加戸茂樹「依頼者見舞金制度と米国の依頼者保護基金制度の比較」自由と正義68巻9号22頁以下(2017年) 

  2. 須網隆夫「司法修習生への給費制復活」法律時報89巻4号3頁(2017年)には、「弁護士会は、給費制復活のために、弁護士の経済的利害を追求する圧力団体として徹底的に行動した。このことは、日本の弁護士の歴史に汚点を刻むものである。」とある。謎理論である。 

ブックレビュー:『破天荒弁護士クボリ伝』

 

久保利先生の本、特に買おうと思って本屋に行ったわけではないが、噂に違わず表紙が派手過ぎて思わず購入してしまった。

今の時代、弁護士として生き残るにはこのくらい押し出しが強くなければダメだ、ということを後進たちに対して体を張って示しておられる。

お話は相変わらずとても面白い。要するに数々の武勇伝が語られている。巻き込まれる危険をきっちり回避しながらも、かつての武富士や商工ファンドとかからも仕事を受けているのが印象的であった。

日弁連の会長選挙に立候補した関係で、久保利先生は釧路にも来てお話をされたことが記憶にある。会長選挙のことも触れているが、破天荒過ぎて多数に支持されるというのではなかったのだろう。また、司法制度改革の点についてはアレなので、特に申し上げることはない。

フツーの弁護士がこのような生き方をマネすれば、塀の中に落ちるか、命を落とすことになるだろう。久保利先生は頭も良いし、一生懸命努力もされているからこそ、このような生き方ができるのだと思う。法曹の生き方というものは真に多様である。

 

 

同姓婚-私たち弁護士夫婦です

南和行弁護士の『同性婚-私たち弁護士夫夫です』(祥伝社、2015)という本を読みました。

この本では、同性婚に関する法律問題、憲法問題などが検討されていますが、今の家族法をどう見るかという観点からも大変参考になりました。既存の婚姻制度の枠組み以外で共同関係を構築しようとすると、法的保護がないことで様々な問題が発生する、ということが良く分かります。

 

同姓婚

まったく話は変わって、私は2007年に従前の勤務先を寿退社し、それから配偶者と共に弁護士法人を立ち上げていますが、元々、私も配偶者も氏(姓)は「岩田」です。

この氏はそれほど少なくないとしても、例えば、田中さんや鈴木さんや佐藤さんほどは多く見かけたりするわけでもありませんから、それなりに稀なことではあります。

 

法律婚の意味

さて、氏の呼称が元々同じであれば、事実婚でも法律婚と見かけは同じという気もします。

しかし、見かけが変わらなければ、逆に法律婚には固有の意味が出てきます。例えば、事実婚では夫婦のどちらか突然死んだ場合には相続財産の処理が極めて面倒なことになりますし、また一方が突然認知症になったり重度後遺障害を負ったりするとこれまた何かと大変です1。子供が生まれれば認知の必要も生じます。

そうすると、名前が変わらないなら、法律婚にしといた方が何かと面倒は少ない、ということにはなります。

 

法律婚の問題点

法律婚をするとなると、民法750条によりいずれかの氏を称することになりますが、元々の氏の呼称が同じだと、事実上この問題に直面しません2

もっとも、どちらを戸籍の筆頭者にするのかという問題はあるのですが、結果的には私が筆頭者になりました3

ただ、このあたりが問題の核心ということではあります。

民法750条が婚姻後の氏をいずれかに定めるとしているのは、形式的には男女平等な規定だということにはなりますが、男性側の氏が選ばれることが多いという慣習の存在を通せば、一般的には女性が氏を選択する機会を奪っているのだともいえます4

 

婚姻後の実情

婚姻後何か変わりがあったかというと、私はともかく、戸籍上は氏を変更した配偶者も、諸々の不便を感じないで済む利点はあったようです。

例えば、ハンコを作り直す必要がなく、銀行口座の名義も変化せず、戸籍上の氏名と職務上の氏名との食い違いをいちいち証明する必要が出てきません。なお、どうなるのかと思ったのですが、外形的には変わってないでしょということで『自由と正義』には公告されませんでした5

 

通称使用の負担

氏名が変わることのとらえ方は人それぞれかもしれませんが、実際問題としては何かとややこしいことが生ずることはあります。

特に、自分の名前を前面に出して仕事をすることが普通である弁護士界隈では、深刻な問題だということが聞こえて来ます。

例えば、銀行でも、裁判所でも、法律上の氏名と職務上の氏名が違うことをいちいち証明しなければならないと不利益が現実化します。実際に、金融機関によっては職務上の氏名では口座開設できないという場合もあるように聞いたことはありました。

そして、婚姻中は、職務上の氏名と法律上の氏名の食い違いが生じ続けますから、本人確認を要する場面で、両者の同一性を証明する負担が常に生じることになります。

 

最高裁判決

ご承知のとおり、最高裁は民法750条の規定は合憲であるとの判決を示しました6。この判決もいかがなものでしょうか7

婚姻しても従前の氏を名乗りたいという人は構造的な少数者であるように思います8。そうすると、裁判所が救済してくれなければ救われる機会はあるのかどうか分かりません。

そこで、その役割からいえば、最高裁が違憲判決を出すべき場面だということで期待はしていたところでしたから、大変残念でした。

 

まとめ

以上、氏の制度は、単なる利便性だけの問題ではないという考え方もあるでしょうから、夫婦の氏をどうするかという問題の答えを導くのは難しいことではあります。

しかし、婚姻の前後を通じて名前が変わらずに済めば、確かに諸々の不便はないといえますし、利便性とは関係なく名前を変えたくない人もいるでしょう。そうであれば、少なくとも、選択的な夫婦別氏の制度は導入してもいいんじゃないかということは思っている次第です。

 

 


  1. 事実婚の場合に相続や後見などの局面でどのような問題が生じるかという点について、同性婚の場合を主とした説明として、南和行先生の本に詳細な説明がなされていることは参考になる(前掲書72?109頁)。 

  2. なお、この点に関しては、「夫も妻も婚姻前の氏を完全に失って、別個の新しい氏になる」という見解だとか、「夫婦の従来の氏の呼称が同じ場合には、夫婦はいずれも改氏せず、離婚、復籍しても氏には変動をきたさない」といった説もある(青山道夫・有地亨編『新版注釈民法(21)親族(1)』353頁〔有斐閣、1989〕)。 

  3. 女性が筆頭者となっている戸籍を見ることは離婚後に戸籍を新しく作ったケースを除けば極めて稀で、体感的には1割未満であるように感じられる。実際の統計上も、そのような数字のようである。 

  4. 夫婦別姓訴訟における高橋和之先生の意見書に詳しく論じられている。(PDF)http://www.asahi-net.or.jp/~dv3m-ymsk/takahasi.pdf 

  5. 今では掲載が省略される場合があるが、当時は弁護士の氏名変更は基本的に公告されていたという記憶である。 

  6. 最高裁判所大法廷平成27年12月16日判決(PDF)http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/546/085546_hanrei.pdf 

  7. 特に多数意見が「しかし、夫婦同氏制は、婚姻前の氏を通称として使用することまで許さないというものではなく、近時、婚姻前の氏を通称として使用することが社会的に広まっているところ、上記の不利益は、このような氏の通称使用が広まることにより一定程度は緩和され得るものである。」と判示している点は、前述のとおり通称使用をすることでむしろ不利益が生ずることもあると思うと違和感を禁じ得ないし、また、通称使用が本当に社会的に広まっているかどうかも実際のところ疑わしい。 

  8. 婚姻する人々の総数の2分の1よりもその人数は少なくなるはずであるから、氏の変更により不利益を受けたと感じる人は、常に社会内の少数派の立場に置かれることになると思われるのだが、どうであろうか。 

小さな町と大法学者

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オホーツク海に近い場所に位置する遠軽町は、東北学院で学んだプロテスタントのキリスト教徒たちによって開拓が始まったという異色の歴史を有しています。

また、それとは別に、同志社で新島襄の薫陶を受けた留岡幸助という教育者が、家庭環境に恵まれず非行に走る子どもたちのための施設を100年ほど前にここに開きます。これが現在の北海道家庭学校の始まりです。この家庭学校は現在では児童自立支援施設という位置づけがなされていますが、私立の施設としては全国でも稀な存在です。

 

さて、かつて、この家庭学校を一度は訪ねてみたいと長い間切望し、宿願かなって見学に訪れることになった偉大な刑事法学者がいました。

五月一八日、遠軽の簡易裁判所に少憩ののち、期待に胸をふくらませながら、家庭学校に出かける。車が「家庭学校」とだけ書いた大きな標札のかかっている正門を入り、やがて左手に洗心寮というのを見ながら管理棟の玄関に近づくと、真赤な頬をした金ボタンの生徒たちが、ちょうど昼飯時で、そのあたりに十人か二十人ばかり集まっていたが、まだ車内にいるわたくしをみつけて、口々に「今日は、今日は」と元気のいい声をかける。世間のいわゆる非行少年たちなのだろうが、何という明るい、のびのびした、活発な、人見知りをしない、可愛い子供たちだろう。わたくしは、もう胸のつまる思いがして来た。(団藤重光『わが心の旅路』305頁〔有斐閣、1986〕)

団藤先生は、最高裁判事在任中に札幌高裁管内の視察の一環としてこの家庭学校に立ち寄り、そのときの思いをこのように語っています。郷里の備中高梁の大先輩として、また恩師の牧野英一が傾倒した人として、創設者の留岡幸助を身近に感じていたようです。

わたくしは、今更ながら留岡先生の偉大さに打たれた。そうして、また、留岡先生と意気投合した牧野先生の姿を思い浮かべて、牧野刑法学の根底に流れるヒューマニズムの精神を改めて感じ取ったのであった。(前掲309頁)

このように、非行に走る少年を預かる施設において人間的で暖かい雰囲気が流れていることにじかに触れた団藤先生が、改めて創設者と恩師のことを想い起こし、甚だ感激していた様子が良く伝わってきます。私としては、家庭学校を見るためにわざわざ遠軽まで赴かれたいうことだけでも、団藤先生への益々の敬意を抱きました。

 

今はどうか分かりませんが、私が札幌で司法修習をしていたころには泊まりがけでの家庭学校の見学がありました。

私が遠軽に行った時期は2月で、氷点下10度くらいはありそうな酷寒の中、子どもたちと雪の中を歩いたり、牛の世話やスキー場の設営の手伝いをしました。この施設は開放的な作りですし、指導役の先生は夫婦で寮に住み込んで、農作業などを子供達と一緒しながら暮らすという家庭的な雰囲気の元で運営をしているので、関わる人たちの苦労は大変なものであろうと思いました。

かつて団藤先生も大変な感銘を受けたようですが、この施設は処遇が難しい子どもたちにとって最後の救いの手ともいうべき存在であり、その独特な運営方針からいっても今や大変貴重な取り組みを行っている施設です。

今後も、息長くこの施設の取り組みが続くよう祈りたいと思います。

 

 

我妻榮先生の勉強法

我妻榮先生といえば民法学者として法曹界では知らない人はいないであろう泰斗であり、改めていうまでもなく数々の優れた業績を残しているのですが、我妻先生の著作や講演集の中には、我妻先生ご自身の勉強の仕方について述べているものがあります。

 

狭く深くという精神

我妻先生は、山形県米沢市の出身ですが、米沢から出てきて、第一高等学校を受験したときのことをこのように回想しています。

当時は、三月に中学を卒業して六月に入学試験だったから、その間の三カ月を、神田のニコライ堂の下にある開成中学の予備校に通った。東京の中学を卒業した学生たちは、何と利口にみえたことだろう。田舎の中学の秀才は、言葉もロクに通じない。焦燥と不安の三カ月!文字通り骨身をけずった。(我妻榮『民法案内1 私法の道しるべ』228頁〔勁草書房、2005〕)

 

開成学園発祥の地(千代田区神田淡路町)

 

今は開成中学・高校は西日暮里に移転しています。遙か昔、ここの高校を受けに行った私も、周りの受験生が余りに頭良過ぎそうで卒倒した記憶があります。我妻先生のような後に偉大な学者となるような人であっても、東京に出てきたときには、東京の学生たちは余程できるように見えたようで、相当にびびっている様子が伝わってきます。

もっとも、そんな中でも、我妻先生は自分の勉強の仕方を崩すことなく入学試験を突破しています。

私は、入学試験勉強としては、中学の三年からの教科書を全部極めて詳細・正確に復習することをその中心とした。受験のための参考書は、その時分にも、むろんたくさんあったが、私はほとんど見なかった。狭く深く、徹底的に理解する。これが私の一生をつうじての勉強方針といってもよいかもしれない。(前掲228頁)

 

赤門(東京大学本郷キャンパス)

 

そして、我妻先生は第一高等学校から東京帝国大学法学部に進学し、更に研究者としての道を歩んでいますが、勉強の仕方の基本はずっと変わらなかったようです。

法律の勉強法についてこのように述べています。

私の勉強のやりかたは、前にもいったように、徹底的に理解することである。私が牧野先生の刑法の教科書を十何回読んだという伝説があるそうだが、非常な間違いである。全体を通じて一〇回も読むようなやり方は決してしない。わからないところは、二、三頁に一日も二日も考えることはある。そこをわからすために先生の他の論文を読むこともある。そして、わからないうちは、先に進まない。わかったうえで、サブノートを作る。そういうやり方で終わりまで一度読めば、あとはサブノートを主にしてせいぜい二度も繰り返せば十分である。(前掲238頁)

 

法律の研究者として論文を作るときのやり方も、基本的には変わらなかったようです。

私は、現在、外国の本を読んで論文を作るときにも、大体こういうやり方をする。すなわち、主要な参考書をまず徹底的に理解する。それから、それを中心にして、関連する他の参考書に手を拡げる。その手を拡げる広さと深さとは、問題にもより、場合にもよる。しかし、とにかく、狭くとも深くというのが私のモットーである。(前掲238頁)

 

このように、我妻先生は一貫して、狭く深く、そして徹底的に理解する、という精神で学ぶことを実践していました。

但し、我妻先生の「狭く」というのは、私如きにしてみれば、地平の見えない程度に広大なものなのかもしれませんが、ともかく、狭く深く理解して、そこから学問の世界を拡げていく、という姿勢を貫いていたのでした。

 

昨今の大学入試

ところで、昨今の大学入試では、知識偏重の選抜から多面的な評価へ、などというスローガンが掲げられることがあります。

今の入試制度は画一的で暗記偏重だ、幅広い視野や論理的な思考力が身に付かない、これからの社会では思考力や判断力や多様な人との協調性が大事になる、等々、どこかで聞いたような言葉が連なって聞こえてきます。選抜方式も推薦やAOが増え、選抜手段も小論文、面接、集団討論やプレゼンといったものが積極的に導入されるご時世です。

我妻先生のことを、幅広い視野や論理的な思考力がない、と批判する人は皆無と思います。むしろその逆です。

しかし、今や少数派かもしれませんが、我妻先生のように、勉学環境が十全ではない地で教科書を緻密に理解していくような勉強の仕方をしていた人にとっては、変な入試制度で妙な能力が要求されたりすることになると、影響がありそうに思います。

 

講演録より

我妻先生も、母校である米沢興譲館高校での講演で、戦後に学制改革がなされたことの影響についてこんなお話をしています。

一段跳びだと東京にある大学は、東京の高等学校を卒業した気の利いたやつが、大部分を占めることになります。田舎の者は大器晩成ですよ。戦後の学制改革の欠点がそこにあると私は思っているんです。入学試験ではうまくいかんけれども、七十才になっても止めないで、倒れるまで仕事をして行こうなんていう馬鹿正直なやつは、田舎でなければ育たない。そういう人を、東京大学に学ばせるチャンスというのはだんだん減って行くんです。私は悲しんでおります。(『我妻榮講演集 母校愛の熱弁』49頁〔財団法人自頼奨学財団理事会、2000〕)

東京の高等学校を卒業しても、たいして気の利かない私としては、ああなるほど、と思ったものです。

確かに、東京の環境は何かと気が利いていて、東大に行きたいと思えばそれ専用の塾もありますし、進学指導に熱心な学校も少なくはありません。要は、都会はそれだけ試験対策を主眼としたトレーニングの機会には恵まれているのですが、主眼が偏ると、「倒れるまで仕事をして行こうなんていう馬鹿正直」さのようなものは鍛えられにくい環境になるのかもしれません。

 

まとめ

本当に身につけるべき、あるいは試されるべき学力というものは、いかなるものなのでしょうか。

我妻先生も自分のやり方が絶対だとは考えてはいなかったようですが、時代が変わってもそうは変わらない部分もあると思います。

我妻先生が実践していた勉強の仕方に鑑みれば、個人が能力を発揮する基礎としては、たまたま難しいことを表現できたり知っていたりすることよりも、より基本的なことを、より緻密に理解していることの方が重要なのではないか、というように感じます。

入学試験に限りません。法体系なんかはそう大きく変わってはいない訳ですから、法律学の勉強においても同じことではないかと、今となっては思うのです。

 

 

書評「ヘイト・スピーチの法的研究」

京都の朝鮮学校の前で「在日特権を許さない市民の会」の人たちがヘイトスピーチを繰り返したという事件で、学校側からの損害賠償請求が最高裁で確定したというニュースがありました。この事件自体は2009年ころに起こったものですが、近時、差別的あるいは排外的な活動が次々と広がりを見せるに至ってしまいました。

本書は、このような問題状況を踏まえて、複数の著者らによりその法的規制の可能性について検討を行った成果をまとめたものです。

さて、本書を読んでまず驚かされるのは、ヘイト・スピーチ活動の実際です。これまで意識したことはありませんでしたが、余りにひどいとしか言い様がない活動が現実にはなされています。

 

例えば、鶴橋でデモを起こしている連中はこんなことを言うのです。実態を知るべきだと考えますからそのまま引用します。

鶴橋に住んでいる在日クソチョンコのみなさん、そしてここにいる日本人のみなさん、こんにちは!
もう、殺してあげたい。みなさんもかわいそうやし、私も憎いし、死んでほしい!いつまでも調子に乗っとったら、南京大虐殺じゃなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ!
日本人の怒りが爆発したら、それぐらいしますよ!大虐殺を実行しますよ!実行される前に自国に戻ってください。ここは日本です!ここは朝鮮半島じゃありません!いい加減、帰れ!

また、朝鮮学校襲撃事件の報道ではほとんど詳しく述べられていませんが、学校の子どもたちの前でこんなことを言っていたというのです。これも実態を知るべきだと考えますからそのまま引用します。

戦争中、男手がないとこ、女の人をレイプして虐殺して奪ったのがこの土地
ここも元々日本人の土地や。お前らが戦後奪ったんちゃうんかい、こら!
これはね、侵略行為なんですよ。北朝鮮による
戦後焼け野原になった日本人に付け込んで、民族学校、民族教育闘争、こういった形で至るところ、至る日本中、至るとこで土地の収奪が行われている
ここは北朝鮮のスパイ養成機関
こいつら密入国の子孫
犯罪朝鮮人
犯罪者に教育された子ども
何が子どもじゃ、スパイの子どもやないか
端の方歩いとったらええんや、はじめから
約束というのはね、人間同士がするもんなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません
朝鮮ヤクザ!なめとったらあかんぞ

このような言動が、韓国人あるいは朝鮮人に属する人々の、個人の尊厳を踏みにじるものであることは論を待たないと思います。

そこで、このような言動、すなわちヘイト・スピーチを法的に規制できないか、ということが議論となるのですが、この点はそう簡単な問題ではありません。

 

ご存じのとおり、表現の自由は日本国憲法第21条で保障されています。もちろん、規制を受けることはありますが、ヘイト・スピーチのように表現内容そのものの規制は、厳格な合憲性審査基準を以て検討しなければならないというのは憲法理論で言われてきたことです。

そこで、ヘイト・スピーチを法律でもって規制しようとしても、規制の仕方が不明確であれば違憲となってしまいますし(ヘイト・スピーチの規制対象を限定するのは非常に難しい)、一方で、憲法適合性をクリアできる範囲で規制しようとすれば、これまた規制の実効性が無くなるというジレンマが生じることになります。

本書ではドイツにおける民衆扇動罪及びそれを発展させたホロコースト否定罪の制定経過と、その問題点にも検討がなされていますが、ここでもやはり規制の困難さ、あるいはその弊害(処罰範囲が拡大していく)が生じる恐れがあることが分かります。

 

表現の自由の保障の意義に鑑みれば、このような言論は、いわゆる思想の自由市場において、有害な言論として撲滅されるべきものだということが基本的な考え方であるべきだと、私は考えます。

しかし、本書でも指摘があるとおり、ヘイト・スピーチは衝撃的かつ威圧的であるために、被害者や一般市民が沈黙してしまったり、対抗言論がかき消されてしまうという問題があります。そのような意味では、少なくとも既存の法令、すなわち民事においては不法行為、刑事においては名誉毀損、脅迫、あるいは威力業務妨害等の責任が生ずる範囲では、厳格にそのような言動者の責任を問うべきことが不可欠です。

 

また、ヘイト・スピーチの発生する根っこには、いわゆるレイシズムの問題が潜んでいるとの指摘が本書ではなされています。例えば、国の政策、政治家の言動、あるいはマスコミの報道、こういったものが有する社会的な正統性の故に、民衆のレイシズム意識を誘発され、増幅した意識が過激なヘイト・スピーチとして発現する、と分析できるようです。

そうであれば、個人の尊厳を踏みにじるような言動を繰り返す政治家は選挙で追い落とし、マスコミは支持しないことがヘイト・スピーチ撲滅のためには不可欠であろうと痛感しました。

 

なお、今年の近畿弁護士会連合会人権擁護大会においては、「人種的憎悪や民族差別を煽動する言動に反対し、人種差別禁止法の制定を始めとする実効性のある措置を求める決議」がなされましたが、ヘイト・スピーチそのものの法的規制を行うべきと言い切ることの難しさを感じさせられました。しかし、このような困難な問題に真っ正面から取り組んだ弁護士の方々には敬意を表したいです。

もっとも、同大会に来賓として招かれた大阪市長は、「ヘイトスピーチへの対策にも取り組みまあす。」的な簡潔な挨拶を市民局ダイバーシティ推進室長といった肩書の方に代理出席させて読ませていましたので、大阪市長の真剣さの程度を理解することが出来ました。

 

 

書評「災害復興法学」

東日本大震災の発生から3年半以上が経過しましたが、未だに震災に伴う種々の問題が収束しているようには見えません。

 

特に宮城県の沿岸地域は、私にとって馴染みの深い場所でした。それだけに、地震発生直後、仙台空港の周辺が黒い波に飲み込まれる映像を見て只事ではないと直感し、しばらく無力感に打ちのめされていました。

言い訳すると、私は気力が沸かないまま何もできませんでした。しかし、多くの弁護士が震災後の現地に赴いて、震災に関する法律相談に当たりました。困難に負けずに取り組みを続けている方々には敬意を表したいと思います。

 

前置きが長くなりましたが、震災後の弁護士の活動と、それに基づく政策提言及びその実現の経過をまとめた本が出版されています。本書に表れている著者のアイデアについて特筆すべき点は、二点あろうかと思います。

 

第一に、震災関連の法律相談で得られた膨大な相談内容をデータベース化することで、各地で必要とされるリーガルニーズの内容を汲み取ろうとした点にあります。震災に起因する法的紛争の内容は、都市部か、沿岸部か、あるいは原発事故の影響が生じた地域か、等々の場所的条件によって大きく異なります。これらをデータベースによって数値化し、その分析を行うことによって、各地でどのような法的な手当が必要とされているか視覚化することに著者は取り組みました。そのままであれば、法律相談の結果は単なる相談票の山にしかならないのですが、これを見事に活用しています。

 

第二に、分析結果を政策提言に活用することで、具体的な政策の実現につなげた点にあります。東日本大震災の後に、新たな制度設計がなされた事項は多岐に渡ります。その中には、相続放棄の熟慮期間の延長や原発事故の時効延長といった既存法の修正がなされたものもありますし、原子力損害賠償紛争解決センターなどの新組織の設置に至ったものもあります。データベースの分析結果に基づいて、そのような制度設計の基礎となる立法事実を分かりやすい形で提供したことが、適切な政策の実現に大きく貢献したということが本書からはよく理解できます。

 

近時、弁護士業務の拡大ということがいわれていますが、具体的にこうしていけば良いのだ、という姿を想像するのはなかなか困難なことのように思うのです。しかし、本書の著者のように、現代的な発想によって、これまで十分に汲み上げることが難しかった一人一人の声に基づく政策提言を行い、それを現実化していったことは、新たな分野を切り開く取り組みとして、同じ仕事をしている者としては学ぶべき点があります。

 

震災から暫くの時間が経過して、景気が回復したとか、オリンピックを誘致したとかの明るい話題が出されることで、世間は現実から目を反らしがちになっているかもしれません。但し、我々は浮かれている場合ではないように思うのです。復旧はまだ十分ではなく、原発事故の影響も収束していません。今なお最優先に取り組むべきことが存在すると改めて思います。

 

 

 

書評「要件事実入門」

法曹関係者にはおなじみの岡口基一裁判官の著作です。たまたま、日弁連の地下の本屋に寄った際に入手することができました。

要件事実を題に掲げる本はいくらかありますが、基本的なところから説き起こしている本というのは少ないように思います(例えば、かつて司法研修所で配布された「紛争類型別の要件事実」や「増補民事訴訟における要件事実第1巻」「民事訴訟における要件事実第2巻」などは、自力で読み解くには難しいところがありました。)。

今まで、要件事実を学ぶには司法研修所かロースクールで教えてもらわなければなりませんでしたが、本書でも基本的なことを学ぶことができるようになったという意味で、貴重な意義があると思います。

 

 

私の場合も、要件事実は司法修習に入って初めて目にするものでした。簡単なものならともかく、細かい条文の要件事実まで暗記もしていられないので、実体法の条文を読んで、いわゆる法律要件分類説に従って分析して、不都合があれば修正する、という随分と大雑把な考え方で取り組んでいたような記憶です。

もっとも、それで良かったのかどうかは分かりませんので、現役の修習生はより精密な起案を書けるようにした方が良いのでしょう。

 

要件事実の考え方は、裁判所にとっては的確な審理を行う道具としての意味はあると思います(他、欠席判決を出す指標にはなる)。弁護士にとっても、余計な主張を抑えつつ主張漏れを防ぐという意味では有用です。この観点から、同じ著者の「要件事実マニュアル」の各巻を訴状を書くときに参照することはあります。

但し、実際の裁判では、訴訟指揮のされ方にもよるかとは思いますが、結局は「関係しそうな事実はしっかり主張しましょう」という話になることが多いような気はします。

 

以上、雑感ではありますが、実体法と手続法と一通り勉強し終わった法学部生やロースクール生にはためになりますし、司法修習からしばらく経過した弁護士が要件事実論を思い出すにも手頃な本のように思いました。巻末の中村真先生によるマンガも驚きの内容です。