北海道の栃木

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北海道のオホーツク海側、サロマ湖に面した佐呂間町には「栃木」という地名があります。

北海道の地名には入植者の出身地から取ったものが少なくありません。自治体でいえば新十津川村とか北広島市がありますし、地区の名前では釧路市の鳥取などもそうです。

ここも栃木から入植した所だろうという程度に思っていたところ、最近になってこの地区の由来を知りました。

以前、「渡良瀬川の河童」というコラムに谷中村のことについて記したことがありますが、この地区は、谷中村を含む渡良瀬川流域で鉱毒と水害に苦しめられた人たちの移転先として入植が始まった場所でした。

今でこそ、このように畑地や牧草地がのどかに広がっていますが、ここに至るまでには、地区の人たちの並々ならぬ苦労がありました。

オホーツク海側の寒冷地の開拓は困難も多く、少なからぬ入植者が撤退したり、あるいは栃木へ帰郷しています(佐呂間町のウェブサイト「もう一つの栃木」に詳しいことが載っています。)。

ところで、冒頭の写真にある開基百周年の記念碑の裏には、この地に存在した栃木小学校の校歌の歌詞がこのように刻まれていました。

遠き親 苦しみひらき うちたてし 心をつぎて
身をきたえ 強く明るく いざわれら あらしに堪えん

開拓の困難の中で、小学校は地域の拠り所になっていたと思うのですが、「苦しみひらき」であるとか「あらしに堪えん」など、小学校の校歌とは思えない峻烈な歌詞には只々仰天するしかありませんでした。

土地を奪われ、生活を奪われるということの困難さは、昔も今も変わりません。

自分の住みたい場所に住み、他の住民と交わり、自分の生活を維持しつつ地域の基盤を築くということは、いつの時代であっても人間が善く生きる上での根源的な条件です。

かつて、渡良瀬川流域で起こった鉱毒問題を半生涯かけて追及した田中正造は、

凡そ憲法なるものは人道を破れば即ち破れ、天地の公道を破れば即ち破る。憲法は人道及び天地間に行わるる渾ての正理と公道とに基きて初めて過尠なきを得べし。現政府が栃木県下都賀郡元谷中村に対する行動は、日本開国以来の未曾有の珍事にして、人道の破壊、憲法の破壊、けだしこれより甚しきはあらざるべし

との請願を議会にしたことがあります1

大日本帝国憲法の時代にも、これが憲法上の問題だという意識が芽生えていたことを見ることができます。

もちろん、今でも居住移転の自由は日本国憲法22条1項に定められています。しかしながら、この時代になっても、原発事故のような住む場所を奪われる事態は続いています。

望まずして住む場所を追われ移住せざるを得なかった人々の悲痛な願いを、今の社会の人々は良く聞き届け、そしてそれに対する万全な配慮を為しえているのでしょうか。未だその道程は半ばであるように感じられてなりません。


  1. 由井正臣『田中正造』203頁(岩波書店、1984) 

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